もふもふ大好き 怪盗仏陀

のんびりと更新します。

80年代って、将来のことは微塵も考えなった



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84年から88年、当時 私は東京のライヴ会場に入り浸っていました。 ライヴ、映画情報雑誌ピアで調べ、将来 絶対くるだろうミュージシャンを見つけるために、、完全に自己満足でした。 仕事になるようなことなんてこれっぽっちも思ってはいません。数年前に サザンオールスターズ新宿ロフトでライヴしていたという伝説があり その後も必ずあると信じて、新宿、吉祥寺、高円寺、下北沢、渋谷など 名だたるライヴハウスは網羅していました。

 


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その時 出会ったバンドが『ウルフルズ』。『ガッツだぜ』がまだ発表されてなかったインディの関西バンド、、雑誌ピアでは 関西で人気急上昇のロックバンドと紹介されていて 関東には鳴り物入り? で東京に乗り込んできたバンドでした。当時『関東バンドVS関西バンド』なんて対バンライヴがあって 『ウルフルズ』は関西代表でした。あれは忘れもしない法政大学学館で対バンライヴの出来事でした。関西代表のウルフルズトータス松本が 身体中にバナナをぶら下げて出演してました。


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当時のトータスは、奇抜な衣装でブルースを歌うのが定番だったらしく、そのライブも全身バナナだらけの奇抜な衣装でした。

 

私は スタッフ専用の二階席で見ていました。ウルフルズの演奏が終わりトータスが、私の隣に絶え絶えに転がり込むように倒れてきました。携帯酸素を何本も使って息を整えていました。 会場は熱気溢れ そこで全力ライヴです。トータスも全て出しきってのハードなライヴでした。


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会場では 一段と大きな歓声が、、伝説のバンド『ザ・フールズ』のライヴが始まりました。フールズは1980年に結成された伊藤耕川田良を中心のバンドでした。決して メジャーとは言えないが音楽雑誌には必ず登場するバンドでした。 パフォーマンスも迫力があって、後の芥川賞受賞作家 町田康、当時は バンクロッカーだった町田町蔵も迫力あるパフォーマーとして人気を二分するロッカーでした。


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そのライヴで大変な場面を目撃しました。 伊藤耕が、一階会場のど真ん中に設置された音楽ミキサーの男に殴りかかったのでした。 伊藤耕は 音の返しをもう少し上げてくれとアピールしていました。音楽ミキサーは タバコを吸いながら伊藤のアピールを完全無視していました。 暫く無音の時間があり伊藤は舞台から下り音楽ミキサーの所へ、、伊藤は音楽ミキサーに殴り掛かっていました。


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トータス松本もその目撃者でした。会場はヒートアップしていた。バンドメンバーは そんな事を気にもせず 演奏を始め伊藤は舞台に上がり歌い始めた。音楽ミキサーは違う人に変わり 殴られた音楽ミキサーの男は 顔から出血していました。 演出にしては超過激で全てがリアルでした。

 

会場には 若手映画監督の石井聰亙逆噴射家族狂い咲きサンダーロードなど】も来ていました。フールズファンの石井監督は その一部始終を見て、その後、フールズのライブビデオやプロモーションビデオを作っていました。


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フールズの伊藤耕は 90年代に高円寺のジロキチや稲生座というライヴハウスを中心に活動していました。その稲生座は 私が10代の頃からよく足を運んだライヴハウスでした。 そこで、朝まで その夜に親しくなった人と一緒にお酒を浴びるほど飲んでいました。それが愉しくて愉しくて、、確実にみんな変態野郎でした。


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伊藤耕は 2017年に亡くなりました。亡くなった場所は、北海道の刑務所、札幌矯正管区・月形刑務所内。2015年に薬物で捕まり刑務所に入っていました。 出所を40日後に控えていた矢先の訃報でした。死因は不審死とのこと。最近 当時の刑務官が体調が悪かった加藤を病院に連れていかなかったのが発覚したようだ。

 

フールズの伊藤耕川田良【2015年死去】も酒と音楽と薬の破滅の人生でした。

高円寺・稲生座のマスターはギタリストでした。マスターが亡くなってから、私は稲生座には行かなくなってしまいました。

 

 

地獄の黙示録 ApocalypseNow


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地獄の黙示録 (ApocalypseNow )


この映画制作に乗り出した コッポラ監督。数年前に 映画「ゴッドファーザー 」で名声を獲得していました。 潤沢な資金が集まり 撮影スタートとなった。 撮影現場はフィリピンのベトナムに似た地域を選んだ。



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ヘリコプターはフィリピン軍に頼み撮影したが、当時、反政府共産党軍との闘争があって撮影中であれヘリを持って行かれてしまう。 その度に 撮影停止。どんどん 撮影日程が遅れてしまう。 本国アメリカでは ベールに包まれたコッポラ監督の新作の撮影進行に不安を感じていました。


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当時の映画制作は、資金を出資者に募り それを原資にして制作が始まります。映画制作で一番重要なのは スケジュールの進行管理。ダイレクトに制作費に跳ね返ります。

 

そして、初夏 ロケ現場の モンスーン地域に雨季が来ます。大きな台風が撮影現場を襲います。撮影セットはメチャクチャ、更に撮影機材に致命的な障害が発生しました。 コッポラ監督は 一時 撮影を断念し 撮影隊スタッフと出演者を解散させます。 本土アメリカのマスコミは一斉にネガティブに報道します。出資者はコッポラ監督に直接 回答を求めます。


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コッポラ監督は 今までの人生でこれほど怖くて震えた事はないと後年 言っています。なんとか 理解を受け、 追加資金も得て 撮影は再開しました。このとき コッポラは、全ての財産を銀行に預けたようです。

 

しかし コッポラ監督の地獄は更に続きます。 主人公のマーティン・シーンが薬物依存で入院したという情報が入ってきます。デニス・ホッパーは相変わらずのジャンキー行動。… 現地でヘラヘラ…コカイン三昧です。


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マーティン・シーンの退院を待ちます。
なんとか撮影時期をずらし 撮影はスタートしました。 晴天に恵まれ 順調に撮影は進みました。さぁ 後はカーツ大佐の一連のシーンを残すのみとなりました。

 

カーツ大佐を演じるマーロン・ブランドは コッポラ監督とは二度目の仕事となります。前作はゴッドファーザーで 流石 名優 マーロン・ブランドという演技を見せていました。そのマーロン・ブランドから 出演辞退のメールがコッポラ監督の下に届きます。 理由は全く書いていません。

 

急遽、撮影を中断し 直ぐに マーロン・ブランドに会いに行くと、何とコッポラ監督と約束していた減量を全くしていません。逆に太っていました。 コッポラ監督は 痩せて知的で冷徹なカーツ大佐をイメージして台本を作っていました。マーロンには何度か連絡し 減量の経過を聞いていましたが、全く約束が違います。


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とにかく マーロン・ブランドを飛行機に載せ 撮影現場に連れてきます。コッポラ監督は エンディングを全て書き直さなればなりません。 撮影班からは 毎日 何を撮れば良いのか?と苛立ち始め 物語に関係ないシーンを撮影していました。

 

コッポラは王国に君臨したカーツ大佐を 女を侍らせ貪る姿として提案しました。しかし、マーロンは納得しません。 また 一からエンディングを考えます。この作業をしている時に、コッポラ監督に不幸な情報が入ってきます。

 

主人公のマーティン・シーン麻薬中毒で倒れ アメリカの病院に入院した事とのこと。 現場では、新しく提案した出資者へのロケ現場見学ツアーで 見学者がどんどんやってきます。その対応で忙しい中、やっとコッポラ監督はカーツ大佐の出演シーンやエンディングシーンの台本を書き上げました。


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やっと本格的に撮影再開です。 「地獄の黙示録」のカーツ大佐のシーンに疑問を感じた観客がたくさんいたでしょう。エンディングも よく分かりませんでした。 カーツ大佐の身体の見えない顔のアップシーンには そんな苦労、裏話があります。


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コッポラ監督の妻、エレノア・コッポラが撮影したフィルムを後に ドキュメンタリー映画ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録』を制作、公開。

 


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The Doors…♪"ハートに火をつけて(Light My Fire)" 

フランシス・コッポラ監督の映画「地獄の黙示録」の代表曲になった曲です。

アメリカ軍カーツ大佐が ベトナムを越えた地域に進出し 原住人に崇められ君臨した。そのカーツ大佐の暗殺という極秘任務に向かう主人公の物語だ。

 

カーツ大佐は、マーロン・ブランド

主人公は、マーティン・シーン

従軍記者は、デニス・ホッパー。 

まだ 俳優駆け出しの初々しい ハリソン・フォードも出演している。

 

♪"#ハートに火をつけて "は ベトナムでも よく聴かれていた曲でした。映画では カーツ大佐を暗殺する大切なシーンに挿入されています。 そのままエンディング曲になっていたと記憶しています。→【ジ・エンドが挿入曲でした】

 

ボーカルのジム・モルソンは 27才 1971年にパリで亡くなっていました。映画「地獄の黙示録」は1980年制作。没後9年で ドアーズが再び表舞台に出て注目されました。その後、1990年に ジム・モルソン自身を主人公にした映画「The Doors」が公開され 再び注目されます。


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ジム・モルソンは、ロッカーの中でも 破天荒の人生を歩みました。あるライブでは 舞台上で自慰行為をし その舞台で警察に逮捕されます。その後、彼のライブ公演の会場に警察官がいて監視されながらライブをすることになります。

 

遠征ライブでは 彼のフリークの女の子達を集めホテルで 大パーティーを繰り広げます。コカイン当たり前の薬付けのパーティーをしていたようです。

 

私は ジム・モルソンの曲を聴くたびに 尾崎豊を思います。尾崎豊は 80年代、渋谷でストリートミュージシャンをしていました。人生が好転し メジャーのミュージシャンになった途端に 麻薬で逮捕されます。そして その数年後に足立区で亡くなります。 麻薬中毒だったのでは?と云われています。

 

どちらも短命に終わった人生。その才能を惜しまれながら太く短い人生を生き 死亡した理由も同じようでした。

 

恐らく尾崎豊も、ドアーズ のジム・モルソンの事を知っていたでしょう。 尾崎豊は、ジム・モルソンに自分を重ねていたのではないかと思えてなりません

松田優作は 私のヒーローでした


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松田優作…私のヒーローだ。20代の頃、何かあるたびに優作ならどう考えるとだろう。と 訳の分からない妄想をしていました。

松田優作は まばゆい芸能界にいても 何かしら寂しさや暗い影があるように感じ 当時はそれもどことなく好きでした。


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松田優作
僕は今年の七月から日本テレビの『太陽にほえろ!』という人気番組にレギュラーで出演しています。

視聴者は子供から大人までと幅広く、家族で楽しめる番組です。

僕を応援してくれる人たちも沢山できました。

現在は、松田優作という通称名を使っているので、番組の関係者にも知られていませんが、もし、僕が在日 韓国人であることがわかったら、みなさんが、失望すると思います。

特に子供たちは夢を裏切られた気持ちになるでしょう。金優作。 

 


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これは優作本人が書いた帰化申請「帰化動機書」です。

松田優作在日韓国人です。更に 優作の韓国人の母親はとても苦しい人生を歩んでいました。

優作の母親は韓国から日本に来て二人の子供を育てました。父親は戦死したそうです。その後、駄菓子や雑誌を売る小売業を営んだそうですが生活は苦しく、その為空いた2階の部屋を娼婦にまた貸しして、女郎屋のような生業をしていた時期があったようです。

 

優作は 母親が女郎屋をやっていたのは知られてもいいが、在日韓国人 という事は知られたくないと言っていたようです。


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当時の在日韓国人は どちらのアイデンティティーも持てないと聞いています。日本では 在日韓国人は差別されていました。子供の時に「朝鮮人だから付き合うな」と心ない大人から言われて育ってきました。

 

韓国へと祖国に帰っても、 そこでも差別を受けます。その差別は日本より酷いと聞きます。韓国には階級制度がありました。最下位の人々は国内で「人以下」と扱われていました。戦前まで、殺されて野ざらしにされても 仕方ないと言われた階級でした。韓国では、日本にいった韓国人は 全て白丁という最下位の階級だというデマや 韓国を棄てた韓国人というレッテルを張られていたようで、母国に帰ることさえ出来ませんでした。

 

ちなみに 日本でも そのような差別階級がありました。西日本中心の文化で 被差別部落と云われています。 私は北海道出身なので部落差別という存在自体知りませんでした。 ただ、北海道では静かなアイヌ差別がありました。

 

松田優作は、そんな差別という暗い影を全て背負って晴れやかな表舞台に立ち続けました。


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松田優作はブルースが好きだったようです。優作もブルースを好んで歌っていたと聞きます。松田優作…バーボンとブルースがよく似合う男です。

 

什の掟。ならぬことはならぬものです


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会津の藩校日新館。『ならぬことはならぬものです』の什 (じゅう)の掟は有名です。 什 (じゅう)の掟というくらいですから 十個の掟と思ってましたが、十個じゃないのですね。


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会津魂と云われる『什の掟

 

一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ

一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ

一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ

一、弱い者をいぢめてはなりませぬ

一、戸外で物を食べてはなりませぬ

一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ

そして、最後に「ならぬことはならぬものです」と、厳格に教戒する。
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これが、「什の掟」と呼ばれるものです。

朱子学を基本にして作られています。

 

これが
六歳から九歳までの会津藩士の子どもたち(男子に限る)は、町ごとに十人前後でグループを作った集まりを「什(じゅう)」と呼んていたそうです。会津武士の“心構え”を身につけさせるための、ある種の幼児教育の場でした。


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集団で7ケ条の素読がなされました。

 

年長者の言うことに背くな、虚言は言うな、卑怯な振る舞いはするな、弱いものはいじめるな等各条がすべて 「なりませぬ」で終り、「ならぬことはならぬものです」と念を押す朱子学的倫理の色濃い教えであり毎日の 「お話」として実践、体得させていました。


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最後の、「ならぬことはならぬものです」の言葉には日本武士道の根源、会津魂が見てとれます。 現代でも通じる内容のものがありますよね。


戒める、この最後の言葉「ならぬことはならぬものです」世のお父さん、お母さんには自信を以って子供に使って欲しい文言です。


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一年前に 会津の藩校日新館に行ってきました。政府でも以前『教育勅語』を見直そうという運動がありましたね。ただ、純粋な基本思想はいいのですが、解釈によって極端な思想に結び付きそうな危うさも感じました。

 

しかし、先人たちは この朱子学を基礎とした 武士の精神「軍人勅諭」を身体に染みるほど教育を受けていたはずです。そんな厳格な教育を受けていた先人たち…歴史は正しく伝えているのかな。

 

「ならぬことはならぬものです」

 

 

 

夕張 黒ダイヤ祭りとウルトラマン


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小学生の低学年の頃 夕張黒ダイヤ祭りでウルトラマンウルトラ怪獣が来たことがあった。場所は夕張本町にあった歌手 大橋純子さんの実家の蕎麦屋の前だった。怪獣は三頭ほど…私たちは 毎週テレビで見ているウルトラマンが来たと大盛り上がりだった。

 

夏の祭り 北海道とはいえ炎天下では 暑くて中の人も大変だっただろう。ましてや 私たちの様なガキンチョが回りを囲み その対応だけでも疲れてしまう。

 

20~30分もしない内に お店の脇に隠れて 着ぐるみの中の人が涼を求めて出てくる。その度に子ども達の歓声。「うるせえぞ!」 街の有志の若者が入っていたのか?有志と言っても 自ら率先してなどという若者はいなかっただろう。推薦かお願いされたか? とにかく 口は汚い。「見せもんじゃねぇぞ」「近寄るな」

 

私たちも負けてない「ウルトラマンが喋った」「ウルトラマン 怪獣やっつけて」「なんだよ偽物だ」「やっぱり人が入っている」 私は 幼かった為 その子ども達の輪から離れて 店の家の角にいた。


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私は 奥の椅子に座っている怪獣の着ぐるみから胸まで上半身を出し Yシャツ姿の鉢巻きをした男をジーと見ていた。鉢巻きをした男は煙草を吸っていた。太陽の光が 男の顔と煙草の煙に当たって綺麗なシルエットが印象的だった。

 

鉢巻きの男は 私と目があった。私はジーと その男を見ていた。男も ジーと私を見て煙草を吸っていた。男の右肩には 何かの落書きがかかれている。「坊主 どこから来た」咄嗟の声でビックリした。まさか声をかけてくるとは思わなかった。

 

何も答えなかった。「カアチャンのところに帰りな」 そんなことを言われたかどうか? 私の記憶は いつも そこで途切れてしまう。

 

ただ あの 怪獣から胸まで出して 煙草を吸う姿と そのシルエットの美しさ。肩の刺青。お祭りの喧騒の中で聞こえた「坊主…」というハッキリした言葉。そしてジーと私を見てた目。 その記憶は 50年以上前の事にも関わらず 今でも ハッキリと覚えている。

 

その光景は、山田洋次監督の映画の「男はつらいよ」を見るたびに思い出します。私だけの記憶。私の昭和の代表的な風景です。


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近くに線路があり 普通に蒸気機関車が走っていました。若者に人気だった車はケンメリ。 その時代には ケンメリは無かった。車は男のステイタスでした。車を持たないと女も出来ないと聞いていた時代の話です。

北海道ウポポイ(民族共生象徴空間)にお願い致します




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アイヌの古式踊り「フッタレチュイ」 黒髪踊り… YouTubeアイヌ舞踊として投稿されている映像を見ました。

 

アイヌ古式舞踊は、自然豊かな北の大地でアイヌ民族が育んできたアイヌ伝統文化です。

保護団体、札幌ウポポ保存会より


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うーん。こんな踊り初めて見ました。 ホントにアイヌの古式踊りとは、到底思えません。

 

祭祀の祝宴やさまざまな行事に際して踊られ、独自の信仰に根ざしています。その様式には古くからこの形態をとどめているものが多くあります。特に信仰と芸能と生活が密接に結びついているところに特色があり、信仰や生活の中から生まれた舞踊性を今なお色濃く伝え、その中には舞踊の発生を考察することができる内容を含んでいて、芸能史的な価値が高いといえます。

 

これらの伝統歌舞は、熊送り(イオマンテ)、菱の実(ペカンペ)祭り、柳葉魚(シシャモ)祭りなどのアイヌの主要な儀式の際に踊られてきました。また、家庭における各種行事の祝宴の際にも踊られ、最近はまりも祭りなどの新しい祭りでも披露されるようになってきています。

 

その内容は、祭りのための酒をかもす時に歌われる「稗搗きの歌」や「ざるこしの歌」に合わせて踊る作業歌舞のようなものから、祭祀的性格の強い「剣の舞」「弓の舞」のような儀式歌舞、「鶴の舞」「バッタの舞」のような模擬舞踊、「棒踊り」「盆とり踊り」「馬追い踊り」などの娯楽舞踊、さらには「色男の舞」のような即興性を加味した舞踊があります。また、その多種多様な曲目もそれぞれのコタン(村)によって伝承曲目が異なり、さらに、その舞い方にも小異があるという特色が見られます。いずれも歌(ウポポ)を中心とし、踊りは輪舞(リムセ)を基本として構成されています。

 

このように本来は「見せる踊り」ではなく、楽しむ踊りでありました。しかし、最近は「アイヌ文化振興法」(1997年)の制定などもあって、アイヌ文化への関心が高まり、各種行事に招かれ、ステージなどでの公演も増えてきました。

 

しかし、私もアイヌ舞踊の詳細までは知りません。また、アイヌの踊りが近代の方が創作しているからと行って殊更に批判するわけでもありません。アイヌの単語は新しい時代に合わせ創作し続けた経緯があります。

 

アイヌ語で問題なのは アイヌ語を語る人が、あとわずかになってしまったことです。当時なかった 携帯電話やコンピューターなど 最新の単語をアイヌ語で作られなくなってしまいました。今は僅かにアイヌ語を話せるアイヌが作った単語を新しいアイヌ語に加えているのでしょう。

 


私の知る限りでは、アイヌ社会で 髪を振り乱す行為は忌み嫌われていたことと聞いています。アイヌは髪髭(かみひげ)の乱れを失禮(しつれい=失礼)として忌む…


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それを加味すると、このアイヌ古式踊りも アイヌの忌み嫌う文化を知らず、現在のアイヌが新しく創作した踊りと思われます。アイヌの踊りは 明治、大正時代の目撃者の証言があり映像もたくさん残されています。その理由も当時の資料で知ることが出来ます。

 

現代のアイヌの方々にお願いしたいのは、当時の資料を研究し 今まで忘れられてしまったアイヌ舞踊やアイヌ文化を継承して頂きたい、過去のアイヌ文化、アイヌ舞踊を将来に残して行って欲しいと願っています。


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大正時代に撮影されたアイヌ舞踊では、お互いに円になり足を踏み鳴らして、ジャンプしながら踊り歩く映像が残されています。アイヌには独特の行進占術、行進舞踊があると聞いています。


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ウポポイ(民族共生象徴空間ウアイヌコㇿ コタン)では 、アイヌの歴史や文化継承を過去の第一資料に照らして遺して行って欲しいです。

 

私の実家は、映画館でした。


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この映画館は私の実家です。

1960年5月の写真です。以前、夕張の歴史資料を整理していたら 当時の写真が掲載されていた本を発見しました。今は更地になっていますが、当時は地域でも有数の大きな映画館でした。

 

炭鉱では 炭鉱夫が一番方、二番方、三番方と 24時間交代で構内に入り石炭を掘ります。その為炭鉱夫たちは、それぞれ街で飲んだり遊んだりする自由な時間が番方によって変わります。それに合わせ、街の飲み屋は休み無し、映画館も、ほぼ24時間体制で映画を公開していたと聞いています。当時は 映画が唯一の娯楽でした。

 

一階には大きなスクリーンがあり、演劇を観賞できるようスクリーンの前に大きな舞台があります。映画館と共用し、二階は当時流行りのダンスホールがありました。床は大理石。私が産まれる前にダンスホールは閉めてしまい、二階は自宅に改装していました。

 

ダンスホールだっただけあり めっちゃ広い空間で、夜は怖くて自宅にも関わらず住居スペースの部屋の外の廊下を歩くことすら怖くて出来ませんでした。

 

その後、父は広い空間に畳を引き 建築関係の労働者の宿舎にしてました。

私たち家族が住む自宅のスペースの部屋を出たら、全く知らないおじさんたちが寝起きしている何とも奇妙な環境です。それもおじさんたちは集団です。私は幼かったので おじさんたちに可愛がれたようです。 一番 恐怖を感じていたのは母親でしょうね。自宅スペースから出たら廊下を走って階段を降りて行きましたからね。やはりじろじろ見られるのが怖かったのでしょう。

 

写真の『日本誕生』の『生』の脇の窓が私の部屋です。隣に木造の家が写っていますが、この家には入れ墨をしたヤクザの家族が住んでいました。私が小さい頃、そのヤクザが二階の実家に怒鳴りこんでひと悶着がありました。その一部始終は今でも鮮明に覚えています。

 


この実家の映画館は『日本恐怖100話』の題材になっていた事を東京に来て知りました。私が18歳で東京に出て、杉並に住んでいた時、ある古本屋で見つけた『日本恐怖100話』という本に、まさに実家の映画館の話が載っていました。

 

どうも、旅芸人の男女間の殺人事件が題材で、その女性が惨殺され 女の怨念が残る曰く付きの映画館と紹介されていました。私の産まれる前の話で、その話自体は知りませんでしたが、まぁ、あっても不思議ではありません。 確かに当時の映画館は、どさ回りの劇団が来て演劇公演をしていたりしていました。よく真夜中、天井を何かが走る音が聞こえてました。 …ネズミです。

 

私の実家の映画館には、劇団は勿論。ラジオで流れる有名な歌手や、更にオーストリアのウィーン合唱団まで来ていたようです。恐らく、演劇の劇団員や旅芸人は日常的に出入りしていたのでしょう。

 

一階の舞台とスクリーンは私の遊び場でした。至るところにフィルムが転がっていて、透かすと映画の一場面が見えました。映画の『ニューシネマパラダイス』のように 私もフィルムの切れ端をお菓子の詰め物に集め楽しんでました。

 

私も二度しか行ったことのない場所があります。 一階の男子トイレです。ものすごく怖い場所でした。ただのトイレですが、小学生の頃に一度入って、そのただらならぬ気配で恐怖を感じ、それ以来入ってませんでした。高校になり友人と度胸試しで三人で入ったのですが、三人で行っても怖かった記憶があります。中々 スリリングな実家ですよね。

 

中学二年のとき 映画 『戦場のメリークリスマス』で有名な大島渚監督が父に会いに来ました。何かの雑誌の企画で父と対談して、最後は家族で一緒に写真を撮りました。父と大島渚監督とのツーショットの写真は 暫くは実家の一番目立つ場所に飾っていました。

 

その後、実家の映画館は更地にすることになります。実家を解体した時に、錆びた古いドスが三振り発見されたと聞いています。家族も知らない刃物です。誰のものかは今になっては知るよしもありません。