アイヌ農家に丁稚奉公に入った 私の母の話。
私の母は 81歳。今夜は母について話します。
今まで聞いたことがなかった母親の話。久しぶりに北海道に帰って母親から初めて聞きました。 母親の出生は何度か聞いた事がありましたが、母親が小学生からアイヌの農家に奉公に入ったのは知りませんでした。
戦前に青森の五所川原で生まれた母は、家族で北海道に渡りました。しかし、父親は戦争で失くし、母親と一人娘で行商をして生活をしていました。重たい和服を室蘭まで運び 室蘭駅の近くで商いをしていたようです。いつしか登別の裕福な男性から見初められ、無事、再婚を果たした母親【私の祖母】でした。そして、私の母はその時、初めてちゃんとした小学校に入学したそうです。
しかし、その再婚した家で 裕福な男性と母親の間に子供が出来た時、連れ子の母は『丁稚』として 他の家に奉公に行くことになりました。戦中、戦後の貧しい頃です。半ば口減らしだったのでしょう。
母親は 『幌別』という地域の大きな農家に丁稚として入りました。当時、行商をしていた頃、お姉さんと慕う人の紹介でした。『幌別』はアイヌがたくさんいた地域【アイヌコタン】で、母が丁稚奉公に入った大きな農家もアイヌでした。そのアイヌコタンのアイヌはみんな親戚同士で団結力も強く協力しあって生活をしていたようです。この地域のアイヌコタンはとても 裕福なアイヌ農家の村でした。
母が丁稚奉公に入った農家は、小さな子供が二人いて、その子達の面倒を見るのが母の仕事でした。アイヌは特別な儀式を月に一度するそうで その儀式のお手伝いもしたと言います。 家長は『何とかカムイ、カムイ何とか』と呪文を唱えています。家の四隅に親戚の人が座り、真ん中にストーブがあって薪を燃やしています。家長は、ストーブにお酒をちょっとかけて お酒を飲み交わします。
その家のアイヌの母は身体が弱く、農家の仕事は出来ませんでした。夜は アイヌの母の背中を揉んだりしていました。一度 家を大掃除した時、身体の弱いアイヌの母の子供の頃の回答用紙が一杯出てきたそうで、その回答用紙が全て100点満点だったので、母は今でもアイヌは賢いと言っています。
その家には アイヌの大ばあ様がいて その大ばあ様がとても厳しい人だったらしく『この話は今まで誰にも話していない』と母は、当時の厳しかった現実に顔を背けたくなるような衝動があるようでした。アイヌの大ばあ様は 口の回りに入れ墨をしていました。
母は、数里離れた山の畑まで行ってフキを取り そのフキを川で洗って背中一杯に持って家に帰ります。 途中で フキを買いたい人がいれば売ります。持って帰るフキが無くなれば また畑まで取りに行きます。
近くのおばさんが『学校行かなくでもいいの?』
母『行きたいけど行けないの』
海が近いので 家族の親戚の漁師のおじさんから魚を一杯貰っていました。食べきれない魚は捌いて軒に干します。内蔵や頭は畑の肥やしにします。その臭く重たい肥やしカゴを背負って数里離れた山の畑まで持っていきます。畑に肥やしを撒きます。 そんな毎日です。家の仕事が無いときは子供たちの世話をしました。
母がそんなキツい奉公が出来たのは、もう一人 お姉さんという 同じ処遇の女の子がいたからです。母もお姉さんも日本人です。
アイヌは物を買いません。全てを自給自足で賄っていました。母はその生活を三年間して家に戻ることになりました。どうも、登別の裕福な男性の家の子供が突然亡くなったそうで 急遽 実家に戻されることになったようです。
登別の裕福な家のおばあちゃんは 母を不憫に思い何度も手紙を母に送っていました。 母はおばあちゃんに会いたい一心で 登別に帰ったそうです。登別の家に帰ったのは 母が10歳くらいの頃と聞いています。
数年後、登別に大きな傷痕を残した水害が発生しました。裏山が崩れ家族は大きな家ごと川に流されました。大好きなおばあちゃんは 母に覆い被さり私の母を助けて亡くなったそうです。再婚した父親は亡くなりましたが、実の母親は助かりました。その時、母は山の畑の事やアイヌの自然の中で生活する知恵を思いだし数日間のサバイバルの役に立てたそうです。
そして、生き残った母と母親は また二人っきりの生活に戻ったそうです。