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韓国の不幸は 初代大統領が李承晩だったことだ。


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韓国初代大統領 李承晩

 

韓国の不幸は 大韓民国の初代大統領が李承晩という人物だったということだ。

韓国で、今日のような「反日感情」が生まれたのは戦後のことである。初代大統領、李承晩(イ・スンマン)が史実を捻じ曲げ、反日歴史観を国民に強制したことが大きい。

彼が歴史を歪曲(わいきょく)した理由は3つある。

①「政権の正当性」の確保。
本来、日本から独立するなら、日本と併合条約を締結した大韓帝国が復活すべきである。だが、戦後最高権力を握った李承晩氏は李王朝の復活を許さず、韓国は共和国となった。そのままでは「朝廷への謀反」となるため、つじつまを合わせるべく歴史を改竄(かいざん)する必要があったとされる。

②国民の「日本時代への郷愁」を断ち切る。
戦後、日本と分断された韓国は世界の最貧国へ没落し、日本時代を懐かしむ雰囲気が国中にあふれていた。日本時代が「地獄」だったことにしなければ、新政権の存在意義が薄らいでしまう。

朝鮮戦争前後の李政権による自国民虐殺事件を糊塗(こと=取り繕う)するため。
1948年に済州島で発生した「四・三事件」では、3万人近くの罪のない民間人が共産ゲリラ幇助(ほうじょ)の疑いで、政府軍に虐殺された。朝鮮戦争が始まると、左翼からの転向者を再教育するために組織した「保導連盟」の加入者を「敵性分子」として虐殺した。少なくとも10万人以上が殺されたという説もある。さらに、北朝鮮ゲリラ討伐の過程で、全羅道慶尚道の山村では、女子供を多数含む民間人を「共産ゲリラ協力者」と見なして数百人から千人単位で虐殺している。

これらの虐殺事件をめぐる政府批判をかわすため、李承晩は歴史を歪曲して、国民の「恨み」を日本に向けさせることにしたようだ。

李氏は歴史を次のように塗り替えた。

①日本は李朝を亡ぼし、朝鮮を植民地化して残虐な支配を行った。

②上海に亡命した独立運動家が『大韓民国臨時政府(臨政)』を立ち上げ、『光復軍』を組織して朝鮮解放に貢献した。それが 大韓民国建国の歴史とした。

③その臨政を引き継いだのが李承晩政権である。

このように自己政権を正当化したうえで、「朝鮮戦争で同族同士が殺し合うことになったのも、すべて南北分断をもたらした日本統治に原因がある」ことにしたのだ。彼は日本時代の真実を語る者を「政治犯」として徹底的に弾圧し、強烈な反日教育で国民に日本への憎悪を植え付けた。

その後の歴代政権も、国民の反日感情を利用してきた。今や統治時代の真実を知る者はごく少数となり、反日感情自家中毒して、日本の立場を考慮するだけで「売国奴」となる国になってしまったのだ。


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いつも観光客でにぎわう、大阪・鶴橋のコリアタウン。おいしい焼肉店や各種の韓国食料品店、美しいチョゴリを売る店など、本場の韓国さながらの雰囲気が人気です 。

一方で、実はこの街の成り立ちそのものが、韓国の悲しい歴史と深く関係しているのです。

今の在日韓国・朝鮮人の人々のうち、済州島の出身者が大きな割合を占めると言われます。済州島は韓国の最南端の島で、福岡から100km程度、対馬から50km程度の距離にあります。現在では観光リゾートとして人気を集めている場所です(昨今、中国人や中国企業が島の不動産を買いあさり、森林の伐採を進め、水資源などを大量に採取して、深刻な問題が生じています)。 この美しい島が、第2次世界大戦が終わった後、2度も地獄と化しました。1948年の済州島虐殺事件(済州島四・三事件)と、1950年からの保導連盟事件に連動した大弾圧です。これらは私たち日本人にとっても関係の深い出来事なので、よく見ておきたいと思います。

まず、済州島での大量虐殺がなぜ生じたのかという政治的な背景を見ておきましょう。第2次世界大戦後、朝鮮半島アメリカとソ連により、北緯38度線を境に南北分割占領されました。冷戦の対立の深まりとともに、米ソ両国は傀儡(かいらい)政権をそれぞれ樹立します。南部では李承晩が、北部では抗日パルチザンで活躍した(とされる)金日成が首班となります。

李承晩は北部との対立を後回しにして、南部単独で国家樹立を先行させるべきと考えていました。一方、そのようなことをしてしまえば、民族が分断されることになりかねないとして反対する者もかなりいました。その代表が金九(キム・グ)や金奎植(キム・ギュシク)や呂運亨(ヨ・ウニョン)でした。(金九と呂運亨はその後、李承晩派とみられる 人物によって暗殺されます)。 民族分断に対する抵抗は、一般世論としても、大きく巻き起こります。危機感を強めた李承晩は、統一派をけん制するため、彼らを共産主義のスパイとして取り締まりました。1948年の段階で、統一派を消すために李承晩が主にとった手段は、暗殺と「ヤクザによる恫喝」でした。

日本統治時代の朝鮮半島には、日本の統治法制に服しない「ならず者」の集団があり、闇市でさまざまな物資を流通させて稼いでいました。中国経由でアヘンなども扱っていたようです。実質的には一種のヤクザ組織で、朝鮮全土に広範なネットワークと巨大な組織を形成していました。

戦後、李承晩政権は彼らを取り込み、「大韓民主青年同盟」を結成させ、共産主義に対する白色テロの組織として、半ば公然と支援します。大韓民主青年同盟の実質的な指導者となったのが金斗漢(キム・ドゥハン)という裏社会の大物で、後に国会議員になる人物です。さらに李承晩政権は、北の迫害を受けて南に流れて来たヤクザ たちを、同様に北から逃げてきた若者たちとともに「西北青年団 」という組織にまとめます。

李承晩政権は大韓民主青年同盟や西北青年団を利用して、共産主義者や政権に批判的な者を暗殺したり、恫喝したりしていました。警察や軍などの正規実働部隊には行動させず、住民票もろくにない(つまり、不法行為の手がかりが残りにくい)ヤクザに、反対派への示威行動をさせたのです。李承晩の番犬のような役割を演じた大韓民主青年同盟や西北青年団は、アメリカからもその存在を認められていました。

李承晩が1948年に入り、南部単独での国家樹立を打ち出すと、統一派の反発が南部全域で強まりました。特に、済州島民は政権批判を強めました。済州島は李王朝の時代から弾圧と迫害の歴史を有しており、反体制的な色彩の強い地域でした 。

李承晩は自分に歯向かう「生意気な」地域の代表として、済州島を選び、見せしめに島民を大量処刑することに決めたのです。

この時、済州島に軍や警察とともに派遣されたのが西北青年団でした。ヤクザ者の彼らは島民を略奪・性的暴行・虐殺する「自由」を与えられ、その結果、島民の5人に1人にあたる6万人が殺害されて、済州島の村の大半が焼き尽くされます。

当時の国防長官の申性模(シン・ソンモ)は済州島民の虐殺について、「西北青年団」が島民に乱暴を働いたことであると答え、軍や警察の関与を平然と否定しています。

済州島虐殺事件は、この連載でも前に触れた「漢江橋爆破事件」「保導連盟事件」と並ぶ、韓国当局による自国民の虐殺事件です。しかし、李承晩政権下の自国民虐殺事件はこれだけではありません。主なものだけでも、以下のようなものがあります。

①高陽衿井窟民間人虐殺事件(1950)
②江華良民虐殺事件(1951)
③山清・咸陽事件(1951)
④居昌虐殺事件(1951)

これらは共産主義者やそのスパイ、北朝鮮に協力したと見なされた一般民間人を、当局が処刑・虐殺した事件です。ただ、それは建前上の理由であり、実際には、政府に批判的な人々やその家族を消すということが目的でした。日本統治時代の親日派も処刑されています。


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当時の大統領李承晩は政権基盤を持っていませんでした。戦前、アメリカに亡命していた経歴があったため、アメリカ人のコネで、アメリカ人によって担がれた傀儡政治家でした。戦後、臨時政府の首班となり、そのまま、韓国大統領となります。李承晩は自らの政権基盤を固めるために、反対派を大量処刑・虐殺します。政治経験の未熟な李承晩は、恐怖政治という古典的な手段以外に頼れるものがなかったのです。

さらに、1950年に朝鮮戦争が起こると、前回この連載で解説した保導連盟事件に連動し、済州島での取り締まりが強化されました。刑務所に収監されていた容疑者まで含め、大量処刑・虐殺が1953年の休戦の時を超えて54年まで続き、約28万人いた島民は3万人弱にまで激減したとされます。

死体は海に投げ捨てられ、その多くが対馬や北九州に流れ着き、対馬や北九州の人々が埋葬し、供養しました。

コリアタウンの賑わいの陰に

また、この期間、小さな船で命からがら済州島を脱出する者が絶えず、対馬や北九州、山口県の海岸から日本へ入り、彼らは在日韓国人となります。彼ら済州島出身者の多くが、大阪市生野区の鶴橋に定住し、コリアタウンを形成していきます。

どうして、鶴橋だったのでしょうか。1920年代から大阪市の市域拡大開発が続き、生野区などの西部地域で大規模な土木工事が展開されました。朝鮮人の出稼ぎ労働者もこの土木工事に積極的に受け入れられ、当時から朝鮮人集落の原形がいち早くできていました。その後も集落は発展していき、1948年の「済州島虐殺事件」後、多くの済州島民が鶴橋を頼り、移り住んだのです。事情を理解していた大阪市側も、彼らにさまざまな行政的支援を与えています。

鶴橋のコリアタウンは、その存在そのものが、韓国の凄惨(せいさん)な戦後史の証人なのです。

これが 韓国の右派・保守派閥の原型です。韓国の左派・革新派の民衆の根強い支持はこのあたりにあるのだろう。在日韓国人も左派思想派が多いのも 肌感覚で右派を毛嫌いする傾向があるのかもしれない。2014年4月16日に大韓民国の大型旅客船セウォル号(世越)」が転覆・沈没した。済州島へ向かっていた高校生など 299名が犠牲になった。数時間 船が傾く中、船長は乗客を退船させずに 多く犠牲を出した事件です。時の韓国大統領、朴槿恵は 事件当日 丸一日どこにいるのか分からなかった。後に 日本の新聞社が 朴槿恵は 韓国大統領官邸、青瓦台で美容整形手術を受けていたとスクープした。韓国青瓦台は 否定し国内で箝口令を敷かれた。大統領のその日の行動は謎に包まれた。セウォル号犠牲者の遺族は 事件の真相解明と国の対応を批判する為にハンガーストライキセウォル号沈没現場近くの港で始めた。抗議運動の中心は 一部の左派勢力の遺族団体だった。対して、朴槿恵大統領擁護派は、ハンガーストライキをしている遺族の前で 集団で食事をしたという。これが韓国ニュースで大々的に報道され、右派、朴槿恵大統領擁護派は大批判された。 その後、朴槿恵大統領が関わる問題が発覚し、朴槿恵を弾劾する ろうそくデモが始まった。

 


松木國俊(まつき・くにとし) 朝鮮近現代史研究所所長。1950年、熊本県生まれ。73年、慶応大学を卒業し、豊田通商に入社。直後から韓国担当を務め、80~84年、ソウル事務所に駐在する。2000年に退社。韓国問題を長く研究しており、「慰安婦の真実国民運動」前幹事長。著書に『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』(ワック)、『日本が忘れ韓国が隠したがる 本当は素晴らしかった韓国の歴史』(ハート出版)など。