東日本大震災の教訓。
東日本大震災 今の小学生は あまり記憶がないのかもしれませんが…
あの大震災で 忘れてはいけないことってなんでしょうか? 私達が記憶に残すことは何なのか?教訓として 何を学んだのか?
2011年3月11日。
私は 東京大学の先生に会うために駒場東大の校舎にいました。大きな地震で 東京も相当揺れました。新しい校舎の責任者が来て 「こちらの建物は東大の建築の先生が設計された建物です。建物は安全です。安心して下さい」と私達に伝えていました。駒場東大の古い校舎のガラス窓は 割れて地面に落ちていました。
早々に 帰る事になり 電車に乗ろうとしても 既に電車はストップ。 私は自宅まで約3時間掛けて 歩く事になりなりました。
その後、毎日 流れるテレビが 余りにも悲惨で 現実の事とは どうしても思えませんでした。そして、福島の原発事故。当時は もう東日本は終わった。日本が終わったと友人が言っていた記憶があります。
私は 震災の3ヶ月後に 釜石に入りました。 それから 約一年間 東京と東日本太平洋沿岸部を何度も行き来しました。 一度行くと確実に3日、4日 滞在します。しかし 滞在するホテルもなく 花巻か盛岡か仙台に滞在し 毎朝 夜が明ける前に出発し 現地に到着していました。
それから ほとんど毎週 行くようになりました。気仙沼、陸前高田、宮古と 現地に入りました。どこも悲惨な状況でした。3ヶ月前の大震災なので 主要な道路は確保されていました。物資も続々と運ばれていました。しかし まだまだ 人が入れない地域があり 自衛隊の方々が人命捜索と道路確保の作業をしていました。道路の脇には道を確保しただけで 瓦礫の山が積み上げられていました。
色んな方々に当時の話を聞きました。特に 印象に残っているのは あの宮城県石巻市立大川小学校でした。校庭にいた児童78名中74名と、教職員13名中、校内にいた11名のうち10名が死亡し 更に スクールバスの運転手と 痛ましい犠牲者があった小学校です。
私は 何度も大川小学校に行きました。大川小学校に通う子ども達が住んでいた地域の街は さほど被災していなく 小学校だけ津波が川を遡上し壊滅的な被害にあった印象でした。 それだけに その地域の親御さんの嘆きは計り知れないほど 悔しい思いをされていました。
私も 話を聞いていて涙が止まらなくなりました。生徒を校庭に並ばせたまでは良かったのですが どの先生も 即座に逃げろと言えなかった。しばらくの間 そのままで先生の指示を待ったといいます。もう危ないと思って 校庭を出て山に向かう途中で ほとんどの子が津波に飲み込まれ亡くなりました。助かった子は 自らの判断で小学校裏の急な斜面を登って助かったと聞いています。生き残った先生の話では 小学校の裏山の急な斜面を登るか 山に向かう平坦な道を行くか 相談していたようで 急な斜面は 低学年では難しいということになったようです。
小学校から山に向かう道の脇に 広い田んぼがあったらしく そこに 子ども達の亡骸が あちこちにあったそうです。
校内の体育館には、たくさんの亡骸が… もう あの時は 心が凍りついていたのか あまり 実感もなく 聞いていましたが 数日後に 改めて想像して初めて震えました。
津波にあった街は どの街も とても臭かったです。特に 気仙沼は魚の腐った匂いが充満して 普通に息も出来ないくらいでした。 震災3ヶ月後はボランティアが続々と入って来た時期で プレハブの仮設住宅も 着々と出来上がっていました。早い地域では、既に入居された被災者もいました。まだ 余震は続いていて 何度となく停電していました。
どこの川も 車の残骸があちこちにありました。恐らく 運転手もろとも犠牲になったのでしょう。
私が 初めて被災地に宿泊したのは 世界一の防潮堤があった田老町でした。 防潮堤の一部がそっくり根元から壊れて 田老町も壊滅的な被害を受けました。私達は 山の麓に僅かに残った集落で 一晩を過ごしました。生き残ったお婆さんは「昔 大きな津波が来て この田老も 全て流された。そして、海が見えなくなるくらい高い防潮堤を作ったんだけど 私らは 怖くて 高台に家を建てた。そして 助かった」
「津波てんでんこ」「命てんでんこ」という言葉があります。
津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」「自分の命は自分で守れ」という意味です。
津波が来たら 自分の命は 自分で守れ、人のことは構わずに てんでんばらばらに素早く逃げろ。自分自身は助かり他人を助けられなかったとしてもそれを非難しない。と…。お婆さんは私に その言葉を教えてくれました。
その日 満天の星が 私を包み込むように光輝いていました。あんな綺麗な星空を見たのは生まれて初めてでした。 それは 眼下に広がっていたであろう 田老の街の灯りが一切無かったからです。
「津波てんでんこ」「命てんでんこ」… 何度も何度も 口ずさみながら 怖いくらい綺麗な星空を溢れ出る涙を堪えながら見ていました。
「津波てんでんこ」「命てんでんこ」
「津波てんでんこ」「命てんでんこ」