松田優作は 私のヒーローでした
松田優作…私のヒーローだ。20代の頃、何かあるたびに優作ならどう考えるとだろう。と 訳の分からない妄想をしていました。
松田優作は まばゆい芸能界にいても 何かしら寂しさや暗い影があるように感じ 当時はそれもどことなく好きでした。
松田優作。
僕は今年の七月から日本テレビの『太陽にほえろ!』という人気番組にレギュラーで出演しています。
視聴者は子供から大人までと幅広く、家族で楽しめる番組です。
僕を応援してくれる人たちも沢山できました。
現在は、松田優作という通称名を使っているので、番組の関係者にも知られていませんが、もし、僕が在日 韓国人であることがわかったら、みなさんが、失望すると思います。
特に子供たちは夢を裏切られた気持ちになるでしょう。金優作。
松田優作は在日韓国人です。更に 優作の韓国人の母親はとても苦しい人生を歩んでいました。
優作の母親は韓国から日本に来て二人の子供を育てました。父親は戦死したそうです。その後、駄菓子や雑誌を売る小売業を営んだそうですが生活は苦しく、その為空いた2階の部屋を娼婦にまた貸しして、女郎屋のような生業をしていた時期があったようです。
優作は 母親が女郎屋をやっていたのは知られてもいいが、在日韓国人 という事は知られたくないと言っていたようです。
当時の在日韓国人は どちらのアイデンティティーも持てないと聞いています。日本では 在日韓国人は差別されていました。子供の時に「朝鮮人だから付き合うな」と心ない大人から言われて育ってきました。
韓国へと祖国に帰っても、 そこでも差別を受けます。その差別は日本より酷いと聞きます。韓国には階級制度がありました。最下位の人々は国内で「人以下」と扱われていました。戦前まで、殺されて野ざらしにされても 仕方ないと言われた階級でした。韓国では、日本にいった韓国人は 全て白丁という最下位の階級だというデマや 韓国を棄てた韓国人というレッテルを張られていたようで、母国に帰ることさえ出来ませんでした。
ちなみに 日本でも そのような差別階級がありました。西日本中心の文化で 被差別部落と云われています。 私は北海道出身なので部落差別という存在自体知りませんでした。 ただ、北海道では静かなアイヌ差別がありました。
松田優作は、そんな差別という暗い影を全て背負って晴れやかな表舞台に立ち続けました。
松田優作はブルースが好きだったようです。優作もブルースを好んで歌っていたと聞きます。松田優作…バーボンとブルースがよく似合う男です。
什の掟。ならぬことはならぬものです
会津の藩校日新館。『ならぬことはならぬものです』の什 (じゅう)の掟は有名です。 什 (じゅう)の掟というくらいですから 十個の掟と思ってましたが、十個じゃないのですね。
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
そして、最後に「ならぬことはならぬものです」と、厳格に教戒する。
これが、「什の掟」と呼ばれるものです。
朱子学を基本にして作られています。
これが
六歳から九歳までの会津藩士の子どもたち(男子に限る)は、町ごとに十人前後でグループを作った集まりを「什(じゅう)」と呼んていたそうです。会津武士の“心構え”を身につけさせるための、ある種の幼児教育の場でした。
集団で7ケ条の素読がなされました。
年長者の言うことに背くな、虚言は言うな、卑怯な振る舞いはするな、弱いものはいじめるな等各条がすべて 「なりませぬ」で終り、「ならぬことはならぬものです」と念を押す朱子学的倫理の色濃い教えであり毎日の 「お話」として実践、体得させていました。
最後の、「ならぬことはならぬものです」の言葉には日本武士道の根源、会津魂が見てとれます。 現代でも通じる内容のものがありますよね。
戒める、この最後の言葉「ならぬことはならぬものです」世のお父さん、お母さんには自信を以って子供に使って欲しい文言です。
一年前に 会津の藩校日新館に行ってきました。政府でも以前『教育勅語』を見直そうという運動がありましたね。ただ、純粋な基本思想はいいのですが、解釈によって極端な思想に結び付きそうな危うさも感じました。
しかし、先人たちは この朱子学を基礎とした 武士の精神「軍人勅諭」を身体に染みるほど教育を受けていたはずです。そんな厳格な教育を受けていた先人たち…歴史は正しく伝えているのかな。
「ならぬことはならぬものです」
夕張 黒ダイヤ祭りとウルトラマン
小学生の低学年の頃 夕張黒ダイヤ祭りでウルトラマンとウルトラ怪獣が来たことがあった。場所は夕張本町にあった歌手 大橋純子さんの実家の蕎麦屋の前だった。怪獣は三頭ほど…私たちは 毎週テレビで見ているウルトラマンが来たと大盛り上がりだった。
夏の祭り 北海道とはいえ炎天下では 暑くて中の人も大変だっただろう。ましてや 私たちの様なガキンチョが回りを囲み その対応だけでも疲れてしまう。
20~30分もしない内に お店の脇に隠れて 着ぐるみの中の人が涼を求めて出てくる。その度に子ども達の歓声。「うるせえぞ!」 街の有志の若者が入っていたのか?有志と言っても 自ら率先してなどという若者はいなかっただろう。推薦かお願いされたか? とにかく 口は汚い。「見せもんじゃねぇぞ」「近寄るな」
私たちも負けてない「ウルトラマンが喋った」「ウルトラマン 怪獣やっつけて」「なんだよ偽物だ」「やっぱり人が入っている」 私は 幼かった為 その子ども達の輪から離れて 店の家の角にいた。
私は 奥の椅子に座っている怪獣の着ぐるみから胸まで上半身を出し Yシャツ姿の鉢巻きをした男をジーと見ていた。鉢巻きをした男は煙草を吸っていた。太陽の光が 男の顔と煙草の煙に当たって綺麗なシルエットが印象的だった。
鉢巻きの男は 私と目があった。私はジーと その男を見ていた。男も ジーと私を見て煙草を吸っていた。男の右肩には 何かの落書きがかかれている。「坊主 どこから来た」咄嗟の声でビックリした。まさか声をかけてくるとは思わなかった。
何も答えなかった。「カアチャンのところに帰りな」 そんなことを言われたかどうか? 私の記憶は いつも そこで途切れてしまう。
ただ あの 怪獣から胸まで出して 煙草を吸う姿と そのシルエットの美しさ。肩の刺青。お祭りの喧騒の中で聞こえた「坊主…」というハッキリした言葉。そしてジーと私を見てた目。 その記憶は 50年以上前の事にも関わらず 今でも ハッキリと覚えている。
その光景は、山田洋次監督の映画の「男はつらいよ」を見るたびに思い出します。私だけの記憶。私の昭和の代表的な風景です。
近くに線路があり 普通に蒸気機関車が走っていました。若者に人気だった車はケンメリ。 その時代には ケンメリは無かった。車は男のステイタスでした。車を持たないと女も出来ないと聞いていた時代の話です。
北海道ウポポイ(民族共生象徴空間)にお願い致します
アイヌの古式踊り「フッタレチュイ」 黒髪踊り… YouTubeでアイヌ舞踊として投稿されている映像を見ました。
アイヌ古式舞踊は、自然豊かな北の大地でアイヌ民族が育んできたアイヌ伝統文化です。
保護団体、札幌ウポポ保存会より
うーん。こんな踊り初めて見ました。 ホントにアイヌの古式踊りとは、到底思えません。
祭祀の祝宴やさまざまな行事に際して踊られ、独自の信仰に根ざしています。その様式には古くからこの形態をとどめているものが多くあります。特に信仰と芸能と生活が密接に結びついているところに特色があり、信仰や生活の中から生まれた舞踊性を今なお色濃く伝え、その中には舞踊の発生を考察することができる内容を含んでいて、芸能史的な価値が高いといえます。
これらの伝統歌舞は、熊送り(イオマンテ)、菱の実(ペカンペ)祭り、柳葉魚(シシャモ)祭りなどのアイヌの主要な儀式の際に踊られてきました。また、家庭における各種行事の祝宴の際にも踊られ、最近はまりも祭りなどの新しい祭りでも披露されるようになってきています。
その内容は、祭りのための酒をかもす時に歌われる「稗搗きの歌」や「ざるこしの歌」に合わせて踊る作業歌舞のようなものから、祭祀的性格の強い「剣の舞」「弓の舞」のような儀式歌舞、「鶴の舞」「バッタの舞」のような模擬舞踊、「棒踊り」「盆とり踊り」「馬追い踊り」などの娯楽舞踊、さらには「色男の舞」のような即興性を加味した舞踊があります。また、その多種多様な曲目もそれぞれのコタン(村)によって伝承曲目が異なり、さらに、その舞い方にも小異があるという特色が見られます。いずれも歌(ウポポ)を中心とし、踊りは輪舞(リムセ)を基本として構成されています。
このように本来は「見せる踊り」ではなく、楽しむ踊りでありました。しかし、最近は「アイヌ文化振興法」(1997年)の制定などもあって、アイヌ文化への関心が高まり、各種行事に招かれ、ステージなどでの公演も増えてきました。
しかし、私もアイヌ舞踊の詳細までは知りません。また、アイヌの踊りが近代の方が創作しているからと行って殊更に批判するわけでもありません。アイヌの単語は新しい時代に合わせ創作し続けた経緯があります。
アイヌ語で問題なのは アイヌ語を語る人が、あとわずかになってしまったことです。当時なかった 携帯電話やコンピューターなど 最新の単語をアイヌ語で作られなくなってしまいました。今は僅かにアイヌ語を話せるアイヌが作った単語を新しいアイヌ語に加えているのでしょう。
私の知る限りでは、アイヌ社会で 髪を振り乱す行為は忌み嫌われていたことと聞いています。アイヌは髪髭(かみひげ)の乱れを失禮(しつれい=失礼)として忌む…
それを加味すると、このアイヌ古式踊りも アイヌの忌み嫌う文化を知らず、現在のアイヌが新しく創作した踊りと思われます。アイヌの踊りは 明治、大正時代の目撃者の証言があり映像もたくさん残されています。その理由も当時の資料で知ることが出来ます。
現代のアイヌの方々にお願いしたいのは、当時の資料を研究し 今まで忘れられてしまったアイヌ舞踊やアイヌ文化を継承して頂きたい、過去のアイヌ文化、アイヌ舞踊を将来に残して行って欲しいと願っています。
大正時代に撮影されたアイヌ舞踊では、お互いに円になり足を踏み鳴らして、ジャンプしながら踊り歩く映像が残されています。アイヌには独特の行進占術、行進舞踊があると聞いています。
ウポポイ(民族共生象徴空間ウアイヌコㇿ コタン)では 、アイヌの歴史や文化継承を過去の第一資料に照らして遺して行って欲しいです。
私の実家は、映画館でした。
この映画館は私の実家です。
1960年5月の写真です。以前、夕張の歴史資料を整理していたら 当時の写真が掲載されていた本を発見しました。今は更地になっていますが、当時は地域でも有数の大きな映画館でした。
炭鉱では 炭鉱夫が一番方、二番方、三番方と 24時間交代で構内に入り石炭を掘ります。その為炭鉱夫たちは、それぞれ街で飲んだり遊んだりする自由な時間が番方によって変わります。それに合わせ、街の飲み屋は休み無し、映画館も、ほぼ24時間体制で映画を公開していたと聞いています。当時は 映画が唯一の娯楽でした。
一階には大きなスクリーンがあり、演劇を観賞できるようスクリーンの前に大きな舞台があります。映画館と共用し、二階は当時流行りのダンスホールがありました。床は大理石。私が産まれる前にダンスホールは閉めてしまい、二階は自宅に改装していました。
ダンスホールだっただけあり めっちゃ広い空間で、夜は怖くて自宅にも関わらず住居スペースの部屋の外の廊下を歩くことすら怖くて出来ませんでした。
その後、父は広い空間に畳を引き 建築関係の労働者の宿舎にしてました。
私たち家族が住む自宅のスペースの部屋を出たら、全く知らないおじさんたちが寝起きしている何とも奇妙な環境です。それもおじさんたちは集団です。私は幼かったので おじさんたちに可愛がれたようです。 一番 恐怖を感じていたのは母親でしょうね。自宅スペースから出たら廊下を走って階段を降りて行きましたからね。やはりじろじろ見られるのが怖かったのでしょう。
写真の『日本誕生』の『生』の脇の窓が私の部屋です。隣に木造の家が写っていますが、この家には入れ墨をしたヤクザの家族が住んでいました。私が小さい頃、そのヤクザが二階の実家に怒鳴りこんでひと悶着がありました。その一部始終は今でも鮮明に覚えています。
この実家の映画館は『日本恐怖100話』の題材になっていた事を東京に来て知りました。私が18歳で東京に出て、杉並に住んでいた時、ある古本屋で見つけた『日本恐怖100話』という本に、まさに実家の映画館の話が載っていました。
どうも、旅芸人の男女間の殺人事件が題材で、その女性が惨殺され 女の怨念が残る曰く付きの映画館と紹介されていました。私の産まれる前の話で、その話自体は知りませんでしたが、まぁ、あっても不思議ではありません。 確かに当時の映画館は、どさ回りの劇団が来て演劇公演をしていたりしていました。よく真夜中、天井を何かが走る音が聞こえてました。 …ネズミです。
私の実家の映画館には、劇団は勿論。ラジオで流れる有名な歌手や、更にオーストリアのウィーン合唱団まで来ていたようです。恐らく、演劇の劇団員や旅芸人は日常的に出入りしていたのでしょう。
一階の舞台とスクリーンは私の遊び場でした。至るところにフィルムが転がっていて、透かすと映画の一場面が見えました。映画の『ニューシネマパラダイス』のように 私もフィルムの切れ端をお菓子の詰め物に集め楽しんでました。
私も二度しか行ったことのない場所があります。 一階の男子トイレです。ものすごく怖い場所でした。ただのトイレですが、小学生の頃に一度入って、そのただらならぬ気配で恐怖を感じ、それ以来入ってませんでした。高校になり友人と度胸試しで三人で入ったのですが、三人で行っても怖かった記憶があります。中々 スリリングな実家ですよね。
中学二年のとき 映画 『戦場のメリークリスマス』で有名な大島渚監督が父に会いに来ました。何かの雑誌の企画で父と対談して、最後は家族で一緒に写真を撮りました。父と大島渚監督とのツーショットの写真は 暫くは実家の一番目立つ場所に飾っていました。
その後、実家の映画館は更地にすることになります。実家を解体した時に、錆びた古いドスが三振り発見されたと聞いています。家族も知らない刃物です。誰のものかは今になっては知るよしもありません。
「夕張川と夕張岳」は 宝の宝庫でした
北海道の千歳空港は広大な石狩平野にあります。千歳空港を降り立ち東に進むと大きな農地が広がる空知平野に出ます。
米国風の農場のような佇まいのファーム牧場が幾つもあり、遠くに雄大な山脈が見えます。そのファームの地からは綺麗な北の大地の風景が見渡せます。
更に 東の山脈に向かって走ると、山間の狭い地に流れる川と合流します。それが我が古里、夕張に流れる夕張川です。夕張はその川に沿って集落や街が形成されています。
夕張川を遡ると、川の両岸が切り立った崖になります。奇岩が川を立ち防ぎ その地盤の割れ目に沿ってそれぞれ滝になって落ちている光景が見ることが出来ます。川は本流から河岸からと、いく筋にも滝になって落ちこみ、更に二本の支流の滝が本流に合流しています。
初めてその地を発見した、明治の探検家 松浦武四郎は、この地を神所(カムイコタン)と書き記しました。それが現在の「夕張・千鳥ヶ滝」です。
【松浦武四郎…初めて夕張川を上りこの地を世に知らせた著書「夕張日誌」を書いた人物、江戸時代末期から明治にかけて活躍しました】
画面の左上の真っ白な山、これが北海道を代表する高山植物の宝庫。貴重な鉱物の宝庫の夕張岳です。 夕張川の源流となる標高1,668 mの山です。
アイヌの話では、金銀財宝が眠る宝の山という伝説がある山です。松浦武四郎は この夕張岳を目指しました。武四郎の著書「夕張日誌」によると、武四郎が夕張川上流一体を探索したのは安政四年(1857年)7月のことでした。この地に詳しいアイヌ四名に案内されての旅だったようです。
アイヌ達は 千鳥ヶ滝周辺を畏敬の地、カムイコタン(神の住む所)をとても敬っていました。去年まで石勝線が走っていて「滝の上駅」があった場所です。夕張川はこの辺りから急勾な谷間を流れ、次の地域の「滝の下駅」に流れていました。今ではダムになっていて形跡の影すら残っていません。恐らく幾つも険しい滝があって それまで人が入り込めない未開の地として残されていたのだと思われます。
【この滝の上から後に登場する清水沢までが、狭い地に一面メロン畑が広がる夕張メロンの産地です】
夕張川を更に上流へ進むと、清水沢という地で川は本流と支流とで二つに分かれます。本流は夕張岳側の北西に向かい、支流は夕張市側の北東に向かいます。そこは 後に夕張が炭鉱の街として栄える大発見があった場所です。
【1888年、二十四尺(約7m)の世界一の「24尺大露頭炭(天然記念物)」が発見されました。米国の鉱山学者ベンジャミン・スミス・ライマンが1876年にこの地を調査した時の助手であった坂市太郎が発見しました】
本流から夕張岳に向かう途中に夕張川を塞き止めたダムがあります。清水沢ダムです。炭鉱の電源を確保するために作られた古いダムです。そこから夕張川はダムに塞き止められシューパロ湖と名前が変わります。
【ダムから朽ちた清水沢火力発電所が見えます。昔は このシューパロ湖で花火大会があり 地元の会社の社長さんたちが、それぞれ提供する花火の大きさを競ってました】
更に その先に道内一大きなダムが完成しました。それがシューパロダムです。計画から30年、2015年に完成した夕張の救世主のダムです。シューパロダムが完成して、やっと夕張の莫大な赤字が黒字に向けて動き出しました。
その新しいダム湖に沈んだ川があります。それが伝説の黄金の川、シューパロ川です。
夕張川周辺は 古くから砂金が採れる川として知られていたようです。江戸時代の享保二年(1717年)幕府の蝦夷地巡見使一行によって編纂された「松前蝦夷記」には砂金山として「ゆうはり(夕張)」の地名が明確に記されています。
北海道の砂金山の開発は17世紀前半から始まりました。産出する砂金は質量ともに本州を遥かに凌くものでした。明治以前、砂金採取が最も盛んに行われたのは寛永年間から寛文年間の頃でした。(1624年~1674年、その後 幕府は蝦夷地の砂金採取を禁止にしています)
日高地方から沙流川【サル川】に沿って山越えしてきた砂金採取者たちが夕張砂金山を発見したと云われています。夕張川周辺で集められた砂金は、現在の新夕張(旧紅葉山)、滝ノ上付近で最初に発見されたという可能性が強いと云われます。周辺の滝の沢では、長大な砂金採取跡が残されています。
松浦武四郎が夕張岳を目指し夕張川周辺を探検してから、34年後の明治24年には新夕張(旧紅葉山)周辺は、道内一の砂金採取の中心地となっていました。
砂金採取は川原の砂礫層に含まれている粒状の自然金を掘り出すので、どんな場所も数年で掘り尽くされてしまいます。人々は金を求めて上流へ上流へと夕張川を登っていきました。
明治20年代には夕張岳周辺が採取の中心地になります。明治31年頃、夕張岳山麓には百余名の砂金取りが入っていて、周辺に出来た村落では賭博の開帳まで盛んでした。
しかし、採金量については、どの時代でもどの地方でも極秘とされているのが普通で、夕張砂金についても正確な資料や記録は残っていません。
明治33年以降、北見枝幸で一大砂金山が発見され、全国的なセンセーショナルを起こしました。良質の砂金鉱区であったために、空前のゴールドラッシュが起こります。北見枝幸では 坊主まで袈裟のまま 川に入り金を採取していたという逸話が残っています。
夕張の砂金は一時、人々から忘れられてしまいます。
ところが再び夕張川の砂金にスポットが当たる時代が来ます。夕張川の上流域のシューパロ川の砂白金【プラチナ】が俄然注目され、買い上げ価格が急騰し始めていたのです。シューパロ川の支流からは 続々と砂白金が採取されていました。この地域では 金が4割、白金6割と たくさんの砂白金が産出されていました。当時は 金より白金の方が価値がありました。
【シューパロ川の支流には アンモナイトの化石が至るところに転がっているようで、私も 何個もアンモナイトの化石を頂いて持っていました】
プラチナは、日本でこの地域でしか産出しない貴重な鉱物でした。夕張は白金の産地でした。現在でも全国で発見されていません。
その後、第二次世界大戦中から戦後にかけて、多くの砂金採取者が夕張にやってきたと云います。シューパロ川の支流には 金無沢やカネオベッ(金がごちゃごちゃある川)、白金川等、金にまつわる地名があります。
夕張川の砂金採取は昭和20年代に終わりましたが、今でも金銀財宝のロマンを求める人が砂金採取をしているようです。夕張川は時代を越えて人々を魅了しています。
夕張岳を目指した探検家、松浦武四郎は 夕張岳のあまりの険しさに 登頂を断念したそうです。 今では 夕張岳の山頂まで登ることが出来ます。
私も高校の頃に夕張岳の山頂に登り、その山頂で拾った小石は今でも大事にしています。
「秋葉原」と「秋葉の原」
秋葉原 … 電気街でオタクの聖地、そして アイドルの聖地。…世界的にも有名な秋葉原はそんな街です。 江戸時代、この周辺は『佐久間河岸』と呼ばれていました。 『佐久間河岸』は材木と薪 炭などの集積地で 江戸のエネルギーセンター 問屋街でした。
この地から火災が起きると 神田、日本橋、京橋、築地海岸まで 一気に炎が広がり大火になりました。それが 江戸時代 度々あったので いつしか『佐久間町~佐久間河岸』迄を『アクマ町』と江戸市民は呼んだそうです。
左中央の広場が「秋葉の原」、佐久間町、佐久間河岸は右中央です。火災の緩衝地帯として 秋葉の原が作られました。
明治になっても 失火は続き 現在のJR秋葉原駅の面積分が焼失しました。明治政府は ここを火除地(防火空地)とし 鎮火の神様【鎮火神社として 静岡県の秋葉大権現の分霊で江戸城内秋葉山の火防 ヒブセの神様を移して祀った】 そして 市民はこの場所を『アキバの原』と呼び 行楽地にしました。
明治24年(1890) ここに上野の貨物駅が開業し 神社は 現在の台東区松ヶ谷に移転して 秋葉アキバ神社となっています。
昭和7年(1932)には 御茶ノ水駅と両国駅間が総武線で結ばれます。その時 山手線と連絡できる秋葉原駅も同時に開業しました。
当時の神田っ子は この『アキハバラ』という呼び名に 大変抵抗し…ここはやはり 鎮火神社を意味する『アキバノハラ』を主張しました。しかし 当時の鉄道省に負けてしまい 現在に至ります。 これは 当時の鉄道省の役人…明治政府の影響を強く受けていた昭和初期の鉄道省の役人は九州人で読み間違えて名付けたのではと思います。
【九州地方 西日本では『原』を濁って読むのが一般的です。バル、バラ、 関東人は ハラ、ワラ】
終戦後 アメリカ占領軍は 昭和26年(1951)12月かぎりとして 都内の露天撤廃命令を出しました。 その時 神保町の本屋街の先、 駿河台下から淡路町、須田町の靖国通り沿いに並んでいた 主にラジオ部品をメインに扱っている露店を 秋葉原駅のガード下に全て収容。それが世界的にも有名なアキハ街の原形です。
現在では『秋葉原…アキハバラ』の事を『秋葉…アキバ』と省略して呼びます。秋葉 アキバは鎮火の神様のこと…。当時の鉄道省が名付けた駅名『アキハバラ』より 従来の呼び名『アキバ』が定着しているのは とても面白い現象だと思います。