佐藤千夜子「あぁ 東京行進曲」…前編
佐藤千夜子を御存じだろうか? 戦前の日本で一世を風靡した歌手です。歌謡曲というジャンルをつくった人。「いちばん星」 1977年 NHK連続ドラマになり、最高視聴率が40%以上の空前の大ヒットとなった主人公です。
その物語の主人公は、実在の人物で、戦前一世を風靡した歌手の佐藤千夜子さんだ。彼女の人生は波瀾万丈で今でも心に残る。彼女の代表曲は「東京行進曲」昭和四年の曲だ。
昔恋しい 銀座の柳
仇(あだ)な年増(としま)を 誰が知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
あけりゃダンサーの 涙雨
恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文(ふみ)かく 人もある
ラッシュアワーに 拾ったばらを
せめてあの娘(こ)の 思い出に
広い東京 恋ゆえせまい
いきな浅草 忍び逢い
あなた地下鉄 私はバスよ
恋のストップ ままならぬ
シネマ見ましょうか お茶のみましょうか
いっそ小田急(おだきゅ)で 逃げましょうか
変る新宿 あの武蔵野の
月もデパートの 屋根に出る
佐藤千夜子は 明治30年に山形県天童市(当時は村)で生まれた。歌が大好きな女の子だった。子供の頃から天童教会の日曜学校に通い讃美歌を歌っていた。その教会で伝道師のミス・キルバン先生と出会った。その出会いが千夜子の人生を変えた。
ミス・キリバン先生は、千夜子の歌の才能を見抜き、山形県の田舎村から 東京のミッション系の女学校に進学させる為 共に東京に出てきた。東京は華やかな都会だった。見るもの全てが新鮮だった。浅草は歩くのが出来ないほど人が溢れていた。銀座では、すれ違う女性がとても上品で綺麗で街は華やかだった。有楽町のキネマも友人と何度も見た。演劇も寄席も、、中でも千夜子が一番熱心だったのはオペラ鑑賞だった。千夜子はオペラに心を奪われた。
「将来 オペラ歌手になる」
そう千夜子は心に決めたのだった。
学校の成績も良く、千夜子は東京音楽学校(現東京芸術大学)に進学した。そこで、千夜子は運命的な出会いをする。在学中に作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情らと出会ったのだ。
千夜子の歌唱力に圧倒された彼らは、千夜子に地方巡業を誘った。特に野口雨情は「これからは演歌ではない。民衆の中に入って歌う。民衆歌謡だ」と千夜子を全国民謡行脚を提案した。千夜子は雨情の熱い言葉に圧倒され全国民謡行脚を決めた。野口雨情、中山晋平、佐藤千代子の三人の全国民謡行脚が始まった。「今の時代は、新しい民謡、、民衆歌謡、新民謡の時代なんだ。千夜子さん、分かるかね。どうかその気概で歌い上げて欲しい」
佐藤千夜子は、青春時代に素晴らしい才能とパッションの持ち主に出会い熱い日々を過ごした。後に野口雨情は童謡界の三大巨匠になった。西條八十、野口雨情、北原白秋。
中山晋平は 日本で一番 民衆に歌われる作曲家になった。童謡・流行歌・新民謡など作品は多岐にわたり、校歌や社歌等を1770曲も作曲し現在も歌われている。そんな二人との全国民謡行脚。千夜子も二人に影響を受けた。
千夜子は東京音楽学校を卒業し、芸能活動を始めた。デビューから大ヒット連発だった。野口雨情、中山晋平、山田耕筰、西条八十など名だたる才能に囲まれて千代子が歌うレコードは爆発的に売れた。ラジオには連日引っ張りだこ。昭和4年「東京行進曲」発売。菊池寛原作の同名小説を映画化のタイアップ曲だった。これが日本初の映画とのタイアップ曲だった。「東京行進曲」は佐藤千夜子にとって最大のヒット曲になった。そして、この「東京行進曲」が歌謡曲というジャンルの始まりになる。
お金もどんどん入ってきた。千夜子は贅沢な生活をしていた。洋服は有名デパートの特注で、毛皮のコートを着て颯爽と銀座の街を歩く。田舎の山形県の天童市にも凱旋帰郷した。街の人から大歓迎を受けた。「我が町から有名人が生まれた」なかには千夜子を拝むお婆さんまでいる。久しぶりにミス・サリバン先生に会った。サリバン先生は、今の千夜子のことが心配だった。東京に出て大成功を納めた千夜子に「千夜ちゃん。大丈夫? ちょっと浮かれていない?」「私の歌は国民に愛されているのよ。そんな事 言わないで、、」千夜子には サリバン先生の言葉は伝わらないようだった。しかし、サリバン先生の心配は当たっていた。
日本キリスト教団天童教会