もふもふ大好き 怪盗仏陀

のんびりと更新します。

私は ももクロに、夏菜子さんの笑顔に助けられました。


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私は ずいぶん長く社会人をやって来たので 相当 世の中の泥水を飲んで来たんだろうと思う。

 

人に何度も騙され裏切られ爪弾きにされサンドバッグのように殴られ散々バカにされた。しかし私は反抗した。どんなものにも負けずに言葉を発した。そして その度に管を巻き飲み明かした。そして、泣いて泣いて笑って寝た。

 

でもそれは致し方無いこと。

今 現実に目に見える環境は 私が自ら作り上げたもの。人生の分岐点はたくさんある。私も その中で自分で選択をしてきた。そして 自分の一番居やすい環境を作ってきた。しかし、その選択をするたびに僅かに理想からはずれて来たのだろう。

 

疲れはてた。もう疲れた。人生経験が豊富と言われるが まぁこんなものだ。まだまだ人生はあるが 昔のように夢や希望が見えなくなっていた。将来も ある程度見える。 あの理想に燃えていた20代 30代を思い出す。良かったなぁ とつくづく思う。金は勿論ないが夢があった。その夢が何度も現実になっていった。 そして 回りも私を必要としていた。

 

 

しかし もう私の時代は過ぎた。仕事を教え続けた彼らも今はもういない。「老兵は 只、静かに去るのみ」しかし 私は老兵なのだろうか? そんな気が全くしない。

もうイヤだ。もうホントに疲れた。心底、疲れはてた。


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しかし、そんな時に現れたのが「ももいろクローバーZ」… 目眩がするくらいの無邪気さ…何かに挑戦するたびに無邪気に泣いて笑っていた。


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特に、夏菜子の笑顔にやられた。それ以降 しょっちゅうYouTubeももクロを検索していた。それを半年も続けていた。そして いつか彼女らのライブを観てみたいと思った。彼女らの一生懸命さに我を忘れて大声で叫びたいと思った。ライブなんて 90年代以降行ってなかった。最後に行ったのは ポール・マッカートニーのライブだ。友人がチケットが余ったと誘って来た。それ以来のライブ。

 

自らチケットを購入してライブに行くのは 80年代のサザンオールスターズ以来だ。しかし 当初 ももクロのライブチケットの買い方が全く分からない。街のチケットぴあで探しても取り扱いはなく 途方に暮れてしまった。

 

結局 チケットは取れずじまい。そのライブの様子を後日 ネットやDVD で見るだけになってしまった。それが2011年のももクリだった。

 


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その感謝を忘れずにと インスタで 毎日ももクロの話題を投稿している。そして、この5月のゴールデンウィークで4年目に突入する。ももクロがあの時 私を助けてくれたことは 今後もズーと忘れません。 ありがとうももクロちゃん。ありがとう夏菜子さん。



未開の原住民は恐怖と好奇の存在だった。

 


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1960年代~1970年代に 全国放送された 「兼高かおる世界の旅」… 海外旅行が誰でもいけるようになったのは1980年代からで 当時は 一般庶民には 高値の花の贅沢な事で 世界を旅行しいろんな国の紹介していた「兼高かおる世界の旅」は お茶の間にいるだけで世界旅行ができると大人気の番組でした。

 

この番組は アメリカ、フランス、イギリス等の先進国は勿論、南アメリカ各国やアフリカ各国、アラブ諸国、南方の島々など 今では紛争地域で旅行などいけない アフガニスタン、イラン、イラクスーダンソマリア等 普通に旅行し その地域の人々の暮らしぶりを紹介していました。当時 どの地域も平和そのもの 今のような世界各地で紛争地域が点在していませんでした。 危険地帯は戦争をしていたベトナムや 紛争の気配がする朝鮮半島でした。

 


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しかし、もっと恐ろしい地域は未開の地域…ジャングルの中に住む原住民でした。パプアニューギニアのどこかに首狩り族がいるらしいと聞いたり、アフリカの未開の地には女を拐う種族がいたり、南アメリカのジャングルで白人の宣教師が殺されたりと 未開人【土人】の恐怖をマスコミや雑誌などで煽っていました。

 

私は 幼かったせいもあり 世界の恐ろしい未開人の存在に想像を膨らませ 震えました。 そんな時 テレビで初めて 未開人【土人】を見ました。番組は 「兼高かおる世界の旅」でした。 首狩り族がいるパプアニューギニアに行き 原住民【首狩り族とは違う種族】を紹介したり バンジージャンプを成人の儀式にしている原住民【バンジージャンプはここから世界に広まりました】を紹介したりと 全世界の原住民を紹介していました。私は始めてみる 土人を目を輝かせて見ていました。


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70年代後半に流行った番組は UFO、超能力、ネッシー、幽霊 等々 全て 未知なるモノが特集され 恐怖や好奇心を煽り お茶の間を沸かしました。

 

その原型が 1960年代の未開人【土人】を紹介する番組でした。後年、NHK 教育番組で放送していた「まっくろけの土人」の音楽が大ヒットしていました。確か 内容は 小さな島にヤシの木が一本。土人の黒人が ヤシの木の回りをぐるぐる回り仕舞いには黒いドーナツになってしまうというストーリーです。

恐らく 番組製作者は 土人は怖くないよ。可愛いよ。という意図だと思います。【その後 放送を自粛し以降 見かける事はなくなりました】

 


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そして、ダッコちゃんブームが日本中を席巻します。ダッコちゃんとは黒人の人形で、二の腕に引っかけて街を歩くのが流行りました。

 


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そんな時代 北海道ではアイヌ部落【東北、北海道では部落という言葉は差別ではありません】の人々が観光客相手に アイヌの普通の生活を披露していました。彼らは刺青をして綺麗なアイヌの民族着物を着ていました。 しかし、彼らは特別で ほとんどのアイヌ人は北海道の各地に普通に生活していました。

 

彼らは 和人と全く変わらない生活をして アイヌであることを隠し アイヌ文化やアイヌ語を捨てて生活をしていました。 和人はアイヌ土人と認識していました。アイヌの人々は熊と生活しテントのような藁葺き屋根で生活すると思っていました。それは一部のアイヌが観光客相手にアイヌの生活を紹介していた事と当時のマスコミやテレビのイメージが重なって出来た印象です。

 


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そんな時 「あの子はアイヌの子だから 一緒に遊んじゃダメよ。素行が悪くなるから」「アイヌとは結婚するんじゃないぞ。世間の目がある」「アイヌは野蛮人だから近づくんじゃない」等々。噂は噂を招き 街の人々の暗黙の差別が広がります。


この暗黙の差別は 北海道の各地でありました。私の古里の夕張は日本中の荒れくれども溜まり場みたいな場所で命を賭けた炭鉱夫の素性などを聞く人はいません。誰がアイヌだなんて噂すら聞きませんでしたが私の知らない場所では あったかも知れません。

 

それだけ アイヌ自身が身を隠して生活していました。小さな街でアイヌであることがばれたり、噂がたったらと日々恐怖を感じて生活していたでしょう。 アイヌの親は子供達にアイヌの子である事を隠します。アイヌ語アイヌ文化も教えません。和人として育てます。そんな時代から50年経ちました。平成が終わろうとしている現在、アイヌの人はどうなっているでしょう。

 

和人として育てられ 自らも全く疑問を持たずに和人と結婚し そして孫もいるでしょう。 しかし それは北海道では稀かも知れません。どこかで出生がばれ 北海道を離れて生活されている人々もたくさんいます。

 

何故 出生だけで差別されなければならないのでしょう。そんな悲しく辛いアイヌの近代の歴史が ほんの最近までありました。この国には、1997年まで 北海道旧土人保護法がありました。 土人とはアイヌの事です。生活困窮のアイヌの人々を保護する法律ですが…土人とは未開地域の原始的な生活をしている住民を侮蔑していった言葉です。元は「土着の人」と意味でしたが 明治以降 差別的な意味合いも含まれています。

 


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1970年以降 土人差別用語となりました。今は死語ですが 2016年の沖縄でレーダー基地を警備する機動隊員が 抗議活動をする地元民に「土人」と発言し問題になった事があります。

 

当時 未開の原住民は恐怖と好奇の存在でした。

 

私は 北海道にアイヌ差別があったと真実を書くたびに悩んでます。漫画家の小林よしのり氏は「日本にはアイヌはもういない」と発言しています。 「アイヌ語も刺青も文化も継承していない民族がアイヌ民族か。普通に日本人じゃないか」 と…確かにそうでしょう。更に和人と結婚し 今ではハーフやクォーターの方々が大半かも知りません。

しかし それは私達 和人がアイヌを差別してきたからです。差別から逃れた結果です。つまり 、和人に「日本にはアイヌはもういない」と言われるのは 差別されてきた当時のアイヌの人々の切実な願いで努力の賜物だったのではないかと感じます。

 

恐らく30年前では 私の発言が差別だと言われていたのではないでしょうか…ホント何だか悲しくなります。

コロボックル伝説 後半

 


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後半……コロポックル伝説と北千島アイヌ……15世紀のアイヌは大きく分けて北海道アイヌ【北海道アイヌでも細かく分かれていますが…】樺太アイヌ南千島アイヌ、北千島アイヌと分かれていたそうです。元は一緒のアイヌでしたが 13世紀以降 地域を隔て生活をしたそうです。

 

道東アイヌは北千島アイヌトイチセコッチャカムイ【竪穴住居に住む人/神】と呼んでいました。 北海道アイヌが13世紀で竪穴住居から平地住居に変わっても 北千島アイヌは 土器と同様 竪穴住居の風習が明治時代まで続いていました。【因みに 南千島と北千島の境界線は 日本が主張する国境と一緒で 択捉島(エトロフ島)とウルップ島の海峡を境に分けています】


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【1710年 蝦夷談筆記】によれば 『千島の島々には異形の者がいる。耳輪を鼻に通す島、男に髭が無い島がある』また イエスズ会宣教師の【1618年 ジロラモ・デ・アンジェリスの第一報告】では 道東アイヌから聞いた話として『北千島アイヌは髭が無く色黒でアイヌ語と異なる言葉を話す』また 他の宣教師は『北千島アイヌは色白で 石造りの家に住み 立派な身なりをしている』といいます。

 

更に【1739年 北海随筆】では 難破した際 流れ着いた島【北千島か?】の『住人は一つ目で言葉が通じない。 住人は頭髪が縮れていた』といいます。このように 道東アイヌは北千島アイヌを異形の人々や妖怪 妖精のような認識があったのでは無いでしょうか?

 

以前 私がインドネシアのバリ島で生活をしていた時 地元の漁民は『隣のロンボク島には 指が6本ある種族がいて 忌み嫌われている島だ』と言っていたのを思いだします。こうした認識はお互い接触を執拗に避け 両者のコミュニケーションが長年 無かったためだったと思われます。


しかし そんな両者でも お互い交易はあったことは知られています。実は彼らは沈黙交易という直接接触をせず物々交換をする方法をとっていました。それはどのようなものかと云うと 道東アイヌが和人との交易で手に入れた米、塩、酒、タバコを浜辺に作った商い小屋に運びます。彼らはその場を離れ一週間は戻らない。その間に北千島アイヌが小屋に置かれた品物と獣皮を交換する。そして 道東アイヌがやってきて 獣皮を回収します。獣皮が過分であれば それにみあった交換品を置いていきます。

 

この沈黙交易の風習は古くは【古代ギリシャの歴史家 ヘロドトスの歴史…/…紀元前5世紀】に書かれています。それによれば 今のチュニジアカルタゴ人】とリビア人との交易は カルタゴ人が交易品を波打ち際に並べ 船に帰ってのろしをあげます。煙をみたリビア人は海岸にやってきて 交易品の代金として黄金を置き その場から遠く離れます。するとカルタゴ人が下船し それに見合う額なら それを取って立ち去ります。額が見合なければ 再び 乗船して待機します。それは カルタゴ人が納得するまで繰り返します。双方とも不正は決してしていないというのです。

 

 

この沈黙交易は世界中にみられます。スカンジナビア半島、シベリア、アフガニスタン、エジプト、ギニアコンゴ、セイロン島、インド洋諸島、インドネシアニカラグア、ペルー、メキシコ、アラスカ、カナダニューファンドランド島など 沈黙交易は言葉の通じない相手にだけと思われがちですが 実際には言葉の通じる集団間でも行われていました。

 

つまり 自分達以外の外部の人々は 悪魔 疫病者 死者という忌み嫌うカオスを帯びた存在だった訳です。栗本慎一郎【経済人類学者】は沈黙交易は『沈黙』というより 接触を嫌うことに本質をもつ『触接忌避交易』であるとしています。【アイヌの文化より】

このアイヌ同士【言葉は通じる相手】でも 決して直接接触しない沈黙交易は コロボックル伝説の『声は聞こえるが決して姿を見せない』『驚かすと船もろとも姿をくらます』『物を乞うと窓から手を出し物を与える』などのコロポックル伝説に出てくる小人と特徴がソックリと云えます。

 


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また、アイヌ人は縄文的要素を色濃く残した人々であるのは以前書きました。 つまり この古来の沈黙交易という風習は 実は縄文人も持っていたのでは?と考えられます。北海道アイヌは10世紀以降 和人との交易を通じ 古来からの縄文的風習や文化も 熊野修験者の和人に影響されて忘れ去られてしまいました。しかし 北千島アイヌは以前の縄文人の風習を近年まで残していて 縄文的風習を忘れた道東アイヌは それを見て異形の人々、妖怪のようだと思ったに違いありません。


北千島のアイヌ縄文人の風習と文化を道東アイヌより色濃く残した最古の縄文系の人々と言えます。そして その北千島アイヌの人々こそが『コロポックル』のモデルなのではないでしょうか?

 

つまり コロポックル伝説とは 熊野修験者の和人が伝えた『#源義経伝説 』と縄文の風習を持った異形の人々『北千島アイヌ』が交わり出来た伝説だったのです。

コロボックル伝説


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#コロボックル 伝説は何処から来たのか? 果たしてコロボックル【フキの下の小人】は実在したのか?
写真は足寄町のラワンブキです。体長は3mにおよびます。


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コロボックル伝説とは北海道に小人がいるといったアイヌの口承伝説です。その最古の伝承文はイギリス東インド会社の【1613年 セリーヌ日本渡航記】に書かれています。内容は 蝦夷地の北方にアイヌとは異なる背の低い人間がいると書かれています。これは松前に行った事がある和人に聞いた話でした。次に南千島択捉島へ漂着した和人の船員の調書にアイヌから聞き取った小人伝説がかなり詳しく記されています。『小人島から本島へ土器に使う粘土を盗みに彼らは 度々渡ってくる。アイヌが小人を脅すと船もろとも姿を隠してしまう。小人島にはワシが多くいて 小人が外出するときは 10人ほどで手を繋ぎ歩く』【1662年 勢州船北海漂着記】これが17世紀の資料です。18世紀は上ノ国小砂子という地名に関する記事に出現します。『昔ここに小人島から小人が100人ほどやってきて 土を盗み 草を抜いていった。そのため"ちいさごが崎"という』【1710年 蝦夷談筆記】また【1789年 蝦夷喧辞弁】にも似たような文章が書かれています。……19世紀になると"コロボックル"という名前が出てきます。『昔 フキの葉の下に三人ずつうずくまっている小人がいた。アイヌは彼らを"コロボックル"【フキの下の小人】と呼んだ。アイヌがものを乞うと コロボックルは窓から手を差し出し それを与えた。コロボックルの手にはイレズミがあり アイヌのイレズミはこれを真似たものである。小人はその後 北方に去り 今は北海道にいない。またの名をトイコイカモイ、あるいはその去った先が北千島のウルップ島に近いのでクルムセ【千島アイヌの名称】と呼んだ』【1806年 東海参譚】また伝説によっては『窓から手を入れてアイヌに魚を与えた。彼らがアイヌに魚を乞う場合があり 与えなければ悪さをする。小人の声を聞いた者はいても 姿をみた者はいない。窓から魚を差し出した小人の手を引き入れると 美しい女だった』【1808年 渡島筆記】などあります。



アイヌユーカラ源義経が生き延び蝦夷地に渡ったとする伝説があります。いわゆるアイヌの#義経伝説 です『蝦夷地に渡った義経オキクルミ…/…国土創造神】がアイヌの大将の娘婿になり その大将が秘蔵する"トラ・ノ・マキモノ"という古い書巻を盗んで逃げた』アイヌが文字を持たないのはこの書巻が盗まれたためであると考えていました。

【1739年 北海随筆】にも似たようなユーカラ採録されています。実は これらの内容は 日本の中世説話を集めた『御伽草子』におさめられた義経伝説『御曹子渡島』のあらすじそのものなのです。恐らく10世紀以降に蝦夷に渡った熊野修験者【金堀り技術者】が広めたのでしょう。

 

内容は 義経が源氏再興のため蝦夷が島の大王がもつ兵法書を手に入れようと平泉を発ち 途中『小さ子島…/…背の高さが扇の丈くらいしかない小人の島』『女護の島…/…女性だけの島』『馬人島…/…上半身が馬で下半身が人間の島』『はだか島…/…島人が裸の島』など 奇怪な島を巡るストーリーです。 この『小さ子島』のエピソードに義経が立ち寄った小人島の小人は鶴にのみこまれないよう大勢で手を繋いで歩くシーンがあります。この鶴と小人は当時の日本では庶民の間で広く普及していました。俳句で鶴といえば小人が付合【つけあい】になっています。

 

もともとは中国の伝来で 古くは【978年 太平広記】などにみえ 明の百科辞典【1607年 三才図会】の小人の項に 東方に小人国があり 鶴にのみこまれないよう群れて歩くと書かれています。更に 中国の小人記事は 元をたどればインドに小人族がおり 鶴から身を守るため隊列を組んで遠征するという 古代ローマの【77年 プリニウスの博物誌】の記事が中国に伝わったものであるといいます。【アイヌ学より】


いつの間にか鶴がワシに変わってしまったのでしょう。しかし 他のエピソードはどうでしょうか? 小人は土器をつくる土を盗みに小人島から北海道に渡ってくる。アイヌが脅すと船もろとも姿を消す。小人島にはワシが多くいるなど……。


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結論から言うと この特徴は北千島アイヌの特徴そのものと言えます。北千島アイヌは江戸時代まで土器づくりをおこなっていました。土器に使う土は他の島から採取していたそうです。更に 北千島はワシの島として北海道アイヌに知られていました。10世紀以降 オオワシの尾羽は高級な矢羽として珍重されていて おもに千島の島々が主産地でした。では姿をすぐ消す 姿を見れないとはどういう事でしょう?それは 彼らの交易方法にありました。彼らは沈黙交易という太古の商い方法を使っていました。島の浜に商い場を設けて 北海道アイヌは交換する品を置きます。数日後に北千島アイヌが欲しい品を持って帰ります。数日後 北海道アイヌは残った品を持ち帰ります。数日後 北千島アイヌは持ち帰った品と価値が一緒の品を置きます。 同じアイヌでも 姿を見せない、出会ってもすぐ身を隠し交換する品だけ浜辺に置いておく物々交換だったようです。……前編

 

 

新5000円の肖像画、津田梅子さん 「明治時代の朝鮮国」


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当時の日本人の朝鮮国に対する悪気のない感想です。新5000円札肖像画になった津田梅子。

 

津田梅子の手紙(米国との書簡)
1883(明治 16)年 9 月 30 日付


1883(明治16)年9月30日の手紙父が帰ってきました。2、3日前に、思ったよりも早く着いたのです。

 

朝鮮についてとても興味深くおもしろい話をしてくれました。

いくつかの点では、動物の方がこのような汚い朝鮮人よりましだと思いますし、あるところには本当に野蛮な人びとがいるのです。
彼らは衣服や食料はとてもよいのですが、粗末に不潔につくられているのです。家は掘っ立て小屋のようだし、妻たちは完全に奴隷か囚人のようです。寝食や労働のために一つの部屋からでることもせず、下層階級の人びとだけが日中、日光にあたるくらいのものです。…彼らの習慣は下劣で、何もかもが汚くそして粗野なのです。

 

父が私に朝鮮について多くのことを話してくれました。あなたの記事のために、聞いたことを書いてまとめたいと思います。きっと、とても関心をもたれると思いますので、書いたら送ります。

 

ある意味で、世界で最悪の国のように思われます。日本で出会った朝鮮の人たちは、人間的にも精神的にも日本人の特徴ととても似ていて、善良で知的で頑強な男性に思われたのですが、どうして人間がそのようになれるのか驚きです。

 

津田梅子さんのお父様の感想です。この文章を読んで 当時の朝鮮は国としての体をなしていないと読み取れます。それは 当時の日本人として脅威でした。

 

何故 当時の日本は朝鮮に多額な投資をしたのか、それは朝鮮の人々に人間的な生活と国らしい国をと願って資金を提供し朝鮮国のインフラを整備する。そして国としての体制を再構築するためでした。当時の日本が一番脅威だったロシアの進出を塞ぐ為の手立てでもありました。朝鮮には当時の日本が疲弊するくらいの莫大な資金を提供しています。

 

アイヌ人は 差別と偏見の中 自らの出生を隠し生きてきた。

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アイヌ人……現在 北海道には23,782人【2007年度】の方々がアイヌ人として 自らの出生を隠さずに生活をされています。

……なぜ アイヌである事を隠すのか?……それは長年 アイヌ人に対する偏見・差別があったからです。

『あいつはアイヌ人だから粗暴なんだ……』『あそこの家はアイヌだから遊ばないで……』『あの家はアイヌだから結婚するな……』等

…… 北海道の道東地方では 学校に何人かはアイヌ人とクラスメート【昭和40年代】だったという人はいるはずです。私の地域では アイヌ人を近くで意識した事は無いですが……。

なぜ北海道では アイヌ人を差別していたのでしょうか? それは 先住民族に対する偏見です。当時 先住民族の事を土人【ドジン】と呼んでいました。現在 その『土人』と云う言葉は放送禁止用語となり 死語になっています。

歴史的に 大和民族(和人)は、アイヌのことを「蝦夷」・「土人(土着人の意味)」と呼び、大和民族と混血したアイヌのことを「アイノ」「アイコ」(「アイノコ」の略語)と呼んでいました。この『アイノコ』も放送禁止用語です。

昭和の頃は 外国人と日本人の混血児を蔑視を込めて『アイノコ』と呼んでいました。今では『ハーフ』と呼んでますね。


歴史をズーと遡ってみましょう〰‼👅 アイヌの祖先は北海道在住の縄文人であり、続縄文時代、擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったとみなされています。

更にオホーツク文化【オホーツク人 モンゴロイド少数民族に近い種族/3世紀~14世紀】が交わりアイヌ文化が創られています。

和人との交易は鎌倉時代からで 熊の毛皮、鹿の皮、鮭の干し物等の記録が残っています。彼らは文字を持ちません。全てが口頭伝承です。

東北地方のマタギ【山を生活基盤とし熊などを狩猟する職業】に数多くのアイヌ語が残されている事でわかるように アイヌ人は狩猟採集民族です。【鎌倉時代に農耕をした形跡はありますが 暫くして その形跡は無くなりました。狩猟採集で和人と交易した方が良いとわかり また狩猟採取に戻ったのは?という学者もいます。

1200年代に和人が住み着いた松前【後の松前藩】とアイヌ人は交易【物々交換】をしていました。 松前の語源はアイヌ語の「婦人の居るところ」つまり アイヌの地に和人の婦人が住んいる珍しさからと云われてます

1264年にはアイヌ人は元寇の戦い・北方の蒙古襲来【モンゴルの南進 樺太攻撃】を戦っています。更に1284-1286年の元寇の連続攻撃にも勝ち抜いています。

この時期 九州にも元寇モンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称で 1度目を文永の役(1274年)2度目を弘安の役(1281年)】と二度 南方の蒙古襲来に襲われています。

この戦いで突如神風【台風】が吹き荒れ 蒙古襲来を撃退したので その後の『神風伝説』が生まれました。今の宗教界の二大スーパースター 日蓮親鸞が活躍したのも この時代です。

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時代は下り 江戸時代になりアイヌと和人の交易は松前藩の独占となり 引き続き交易をしてました。それまでには 幾つもの和人との戦いがあった事が記録されています。

しかし 和人との戦いには全て負けてしまいました。 アイヌ人は決まった相手としか取り引きできなくなり、多くの不正が行われました「アイヌ勘定」や「メノコ勘定」という言葉があります(メノコは女性のこと)「アイヌは数をかぞえることができないので『はじめ、一、二…十、おわり』と数えて交易品を騙し取った」というアイヌをこっけいにあつかった北海道の民間伝承です。

明治時代に「アイヌ勘定」をされた女性の思い出話が残っていますが、実際には不正をされているとわかっていても、にらみをきかせて文句を言わせないのだそうで、とてもくやしい思いをしたでしょう。

明治時代になり 明治政府はそれまでの「蝦夷地」を北海道と改称し、一方的に日本の領域のなかに組み込みました。戸籍を作ってアイヌを日本の国民とみなす一方で「旧土人」として和人とは区別しました。


考古学でも偏見と差別がありました

……倭国卑弥呼時代】以前には縄文時代弥生時代がありました。縄文時代は一万年以上、弥生時代は700年近くです。縄文時代は狩猟採取が基本で 考古学界では石器時代と変わらない生活をしていたと思われてきました。そのため文化も言語も何も研究されていません。私たちも学生時代に教わった縄文時代に関する授業は一瞬うちに過ぎ去りました。


あの原始人たちのギャグ漫画『ギャートルズ』で有名になった『ギャートルズ肉』でもわかるように 私たちはその時代を非文化圏と思っていませんか?。

それは 全て偏見です。『縄文時代は世界の四大文明に匹敵するくらい』と今では云われています。因みに 縄文時代は煮物文化とも云われ 現在の鍋料理は縄文時代からと云われています。ギャートルズの肉は西洋の文化です。


その縄文人の末裔のアイヌ人を 私たちは差別・偏見の目で見ていたとは残念でなりません。

萩原健一と原田芳雄。そして、松田優作


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傷だらけの天使

 

当時、めっちゃ憧れた一人住まいの朝食です。萩原健一主演「傷だらけの天使」オープニング。恐らく 誰もが真似をした朝食シーンでした。

 

私の大好きなテレビドラマ 2本です。

 

当時、原田芳雄【1940~2011】と萩原健一【1952~2019】は 両者二分するスーパースターでした。原田芳雄は映画俳優として、萩原健一は元ザ・テンプターズリードボーカルで1960年代に大人気だった歌手です。 その後 萩原健一はテレビドラマ俳優としてスターになっていきました。

 

その時 松田優作文学座を一次試験まで合格したものの 結局は不合格になり 新宿ロックでアルバイトをしていました。 その時に知り合った 桃井かおりは優作が不合格になった文学座の俳優。一年先輩になります。 その桃井かおりが この子面白いと原田芳雄に紹介し 俳優連中の仲間と夜の街を飲み歩いたそうです。

 

一度だけ 原田芳雄の自宅に松田優作が招かれたそうです。連れは、原田大二郎 村野武範 桃井かおりウルトラセブンのアンヌ隊員こと、ひし美ゆり子さんです。 松田優作は 縁側のはじで ウイスキーボトルを片手に 独りで静かに飲んでいたそうです。原田芳雄は「不思議なヤツだな」と思っていたそうです。

 

松田優作をテレビプロデューサーに紹介したのは村野武範でした。

 村野は、新進気鋭の俳優で「飛び出せ青春」に出演しています。その「飛び出せ青春」のテレビプロデューサー岡田晋吉に松田優作を紹介したようで 岡田はその後 「太陽に吠えろ」のプロデュースを手掛けています。


村野武範は 前日に松田優作に麻雀で負け 仕方なく 松田優作をテレビプロデューサー岡田に紹介したようです。人生 何がきっかけになるのか分かりませんね。

 

 


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探偵物語

 


探偵物語は、1979年9月18日から1980年4月1日まで日本テレビ系列で全27話が放送されたテレビドラマでした。当初は、三流ドラマとして見られていましたが、第三話で辣腕女弁護士マサ子ちゃん役で賠賞美津子さんが共演し 関係者を驚かせ 一躍 メジャードラマとしての地位を獲得しました。当時の賠賞美津子さんは 映画界のドル箱スターで まさか こんなチャラけたドラマに出演するとはと マスコミや業界で話題になりました。

 

テーマ曲を歌っているのは「SHOGUN」 70年代後半に スタジオミュージシャンが集まって結成されたバンドです。 約3年弱の短命なバンドでしたが 「俺たちは天使だ」等 テレビドラマのテーマ曲に使われていました。 その後 一部の残ったメンバーは 西城秀樹の代表曲 ヤングマンで演奏されていたそうです。

 

このバンドも 二人のバンドマンが麻薬で逮捕され バンドが解散しました。

 

同時期に登場した YMO Yellow Magic Orchestra 細野晴臣高橋幸宏坂本龍一等も スタジオミュージシャンからのスタートです。 当時は スタジオミュージシャンからメジャー界に進出するバンドが幾つもありました。←事実と違いました。

 

当時のトップスタジオミュージシャン終結したにも関わらず、名声を得ることなく消えていったバンド「SHOGUN」。解散せずに残っていたらたくさんの名曲をテレビドラマに残していったでしょう。

 

ちなみに ライターでタバコに炎を点けるシーン。炎を一番高くさせる為 100円ライターの炎を最大にセットしてと誰もが真似していました。



新宿ロックの話は…

ウルトラセブンの『アンヌ隊員』と『松田優作』と『新宿ロック』

…に書いています。 2018年4月投稿。