もふもふ大好き 怪盗仏陀

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福岡県 筑豊は日本一の炭鉱地帯だった


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菜の花……荒れた土地に一面に咲く菜の花。黄色い小さな花だが 生命力は他の花より強いらしく 他の花を差し置いて どんなところにも可憐で綺麗な花を咲かせます。

 

福岡県の筑豊(ちくほう)。遠賀川(おんががわ)沿いに広がる筑豊は、明治から昭和にかけて日本一の炭鉱地帯でした。


ふるさとを出て 一攫千金を夢見た人々は、炭鉱住宅「炭住(たんじゆう)」に暮らしました。炭住と黒いボタ山筑豊の象徴です。石炭を掘ると出る捨て石「ボタ」が山になりました……かつては全国の出炭量の半分を担ったといわれる筑豊の炭鉱は四十年以上前に全て閉山しました。


当時、炭鉱で働いていたのは男だけではありません。女性も真っ黒になり働いていました。


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……『 これはですね、「まぶべこ」っていうんです。「まぶ」っていうのは坑内のことです。炭鉱の坑内で働いた「女坑夫」と言われた人たちの仕事着です。こうやって、裸の上にこうして サラシの腹巻きをするんです。一丈くらいのサラシをキリキリッと巻くんですね。これが仕事着です。上はもうほとんどもう裸。裸で働くとか、絶対そんなこと考えられんですもんね。でも裸じゃないと中暑いんです。ほんとにもう入っただけで一升汗がバーッと出るくらい暑いんです。ただ裸でいると、落盤とか、天井が下がってくる時に、バラバラっていう知らせがあるらしいんです。今からこうバレるぞという知らせというのがあって。それが裸だと小さな小さな砂のようなつぶてでも、バラッときたらすぐ「あ、落ちる」というのが分かるらしいんですよ』

 

 

炭坑では 落石事故は付きものでした。時には 痛ましい爆発事故もありました。

 

女坑夫……『あれは満州事変の起こった時、何年でしたかね……日にちだけは覚えとる。九月の十日やったです、爆発したのは。火が坑内の全部になるんですけんね。これぐらい生き地獄はないですよ。十八人即死や。ハッと思った瞬間に口を開けるから、吸い込んで内臓が焼ける。そやから助からん。うちの弟は十七歳やった。こうして苦しんだんやろうね。手でこうして。ここに一皮下がっとる。両方むけて、皮が。真っ黒こげ。もう苦しかったんやろ。歯と目を食いしばっとったもん。うちのお母さん、狂うたですよ。死体に抱きつかれもせん。黒こげやから』


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女性たちが働いたのは、人の手で石炭を掘る中小規模の炭鉱「小ヤマ」でした。「先山(さきやま)」と呼ばれる男性が掘った石炭を、地上に運び上げるのが、女性の仕事でした。石炭を積む「炭車(たんしや)」は、小ヤマでは数が限られ、回ってくるまで坑内で長い時間待たなければなりません。男は「女は辛抱で金を稼ぐ」と言ってましたがほんとそうでした。

 

女坑夫……『 最後の最後まで一粒残さずね積んであげないとお金にならないからですね。五時間も六時間もジーッと函(はこ)を待ってね、一台の空の函を待って、やっと積んでカネになるんですよ。 早く帰りたいけどが帰れない。積んでしまわな帰れん。だから女の人は「産んだ子は育てないけん。掘った石炭は積まなならん」ってね。坑内の仕事っていうのはね、やっぱり危ないとこですからね。だからもう気力で闘わないけんのですよ。だからそのために「山より大きい猪は出らんやろうが」と思って。なんぼ猪が怖いっていっても、猪に向かって行かにゃいけんのですよ。もう炭鉱しか仕事がないんですから。そこで生きていかにゃいけんのやったら、もう仕事とも ぶつかり合わなしょうがないんですよね。多分それほどつらい仕事やったと思います』


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 「戦争中は、女と朝鮮人で石炭掘ったんばい」男の人がおらん。だからもう「女と朝鮮人で石炭を掘ったんやきね」

 

女坑夫……『朝鮮の人と一緒にするんですよね。そのころで六十すぎのおいちゃんやったけど、いつもキツイけどしょうがないって。もう弁当のおかずは割れ木―たくあんのこと。私たちはなんぼ貧乏しちょっても、親がね大豆の炒(い)ったんとかしてくれるからね。炭鉱で重労働するから。それでいつも分けてあげるんよ。日本語がいくらかわかってね。ユキちゃんどうもありがとうって。 一回わたしが坑内から上がってきたらね、労務で その朝鮮の人をたたきよるわけよ。やっぱり歯がゆいわけ。自分の身に比べたときに。死んでね。死んでないけど、気絶したから また水をじゃぼっとかけるわけ。またたたくという状態にしてね』


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戦争時代 朝鮮の人は差別されていました。

 

『この路地を毎日お昼くらい、私たちが学校から帰ってしばらく、夕方ちょっと前くらいに朝鮮の女の子の姉妹がここをいっつも通るんですね。大きいバケツを持って。バケツに蓋がしてあって。そしたらこの路地の周りにおる男の子たちが追いかけるんですよ。もう「朝鮮人朝鮮人」とか言って。女の子のお姉さんの方が、ものすごく気が強い女の子で、男の子たちがわいわい追いけてきても、別に絶対負けないんですよ。大きな竹の棒を持って、こうやって追い払いながら、「何すんかあ」って言って。結局その男の子たちが言うのは、その中に何が入ってるかって言うんです。結局男の子、子供たちは「うんこが入ってる」って言うんですよ。そしたら「うんこじゃない!」ってその子が言って、もうこうして追い払うようにするんです。私はついて行ったんです。後ずっと。どこに行くんだろうと思って。ほんとにうんこが入ってるのかなんかとにかく。見らんでね、みんな言うけど。それでついて行ったんですよ。そしたら寮の賄いをしてるおばちゃんが、「ああ、遅かったね」とか言いながら、そのいわゆる残飯ですね、寮で賄いしてるので食べ残りとかいっぱいあるやないですか。食べ物の野菜のくずとか。それをそのバケツにザーッと入れてやったんですよ。結局豚を飼ってたと思うんですね。その朝鮮の子供たちの家は。そしたらね、そのあの気の強い女の子がワーッと泣き出したんです。私、見たからそれを。うんこじゃないで、残飯やったんですよ。豚の餌にするんですね。だからあの女の子にとっては、うんこが入ってるって言われても、うんこじゃない。空だからです。空のバケツ持って行くんやから、「何も入ってない!」って言えるんですけど、私が見てしまって、あの中には残飯が入ってるっていうのを、私が見たから。私も泣きそうになって、すぐ帰ったんですよ。走って帰って、もう家に帰って。なんかものすごく悪いことをした。どういう―ちょっと言いようがないんですけど』



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そして その差別は 炭住に住む人達にも向けられていました。

 

炭住っていう地域は、誰でも受け入れる所なんですね。結局あのいろんな地域から、地方から出てくる人たちばっかりの集まりですから、誰でも受け入れるという。そういう開放的なところがあると思います。「おいで、おいで、遊びおいで」とか言ってどんどん引っ張っていってくれて。ついて行くと、全くそこは今まで見たこともない。環境が全然違うんですね炭住があって。昔の炭住です。


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おばあさんがおって、「あんた、どこから来たとね?」って言われて。「小倉から来た」って言ったら、「何で小倉から来たとね?」とか。身の上話を聞かれるんですね、おばあちゃんたちから。「こうして空襲があって、家が壊れたからここに来た」って言って。そんなことを上手に聞いてくれて。なんかね話をしてたら、今までほら黙ってそういうこと誰にも言えないできて、親にもそんなに言えないし、言う人もいなかったんですけど。「どうしたんね?」とか、「ああそりゃ大変やったね」とか、「あんた、そりゃおおごとやったね」とか。それでそのばあちゃんがものすごく懐かしい人に思えてきて。

 

でも親たちは、母親は「ああ、誰かと遊んで帰ってきた。友達ができてよかったね」って思うんですね。「どこで遊んだ?」って聞くから、「炭鉱に行って遊んだ」言ったら、「今度は炭鉱に行ったらいけん」って言うんですよね。だからやっぱり村と農村と炭鉱というのはすごい差別意識が、村の中にはあったですよ。それはもう誰に聞いても、今でもみんなそう言いますからね。


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戦争が終わると、筑豊に大きな変化が訪れます。国のエネルギー政策が石油へと転換し、筑豊の石炭産業は一気に衰退します。炭鉱は次々と閉山。生活のすべは失われました。人々は仕事を求め筑豊を離れていきました。しかし 払い下げられた炭住に住む 行き場のない人達はたくさんいました。

 

炭鉱がなくなるっちいうのはね、ほんとに。やっぱ閉山の時のこといいばね、いろいろね。あんた苦労があったんや。まさか潰れるとか思わんもんね。炭鉱がね。炭鉱の閉山のこと思い出したんや。いいことばっかりはないよね。炭住があったから、自分たちは生きてこれたっていう。ほとんどのばあちゃんたちは言ってましたから。

 

それは本音だろうと思います。結局頼るところを持たないわけでしょ、みんな。ふるさとも捨ててきたし、親兄弟もすぐには頼れないような立場で。だからもう本当に隣の人と一緒にやっていかないと、その群れから外れたら生きていけないっていう。もう切実な問題もあったと思うんですね。命の危険がかかってるんですよ。そんな時に急に死ぬような、命がなくなるような、そういう事故に遭った時でも、もう自分の力じゃどうしようもないんですね。みんなに助けてもらわないと。炭住の助け合いっていうのは、ほんとに普通じゃないです。普通私たちが考えるような助け合い以上の助け合いがあったと思うんですよ。だって捨てられた子を育てるんですよ。自分の子供のようにずっと育ててやって。そしたらある日急におらんようになった。


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ふっともうおらんようになって。「何で」って言ったら、「親がね捜しに来て親が連れていったんやろう」って。「よかったね」って言うんですよね。腹立たんのやろうかって思うけど。黙って一生懸命育ててやってね、我が子のように。ひと言ぐらいお礼言ってもいいんやないとって、私は思ったけど、そのおばあさんは、「まあよかったたい。ほんとの親が迎えに来てくれてよかったよった」って喜ぶんですよ。「我が鬼にならんかぎりは、まわりも鬼にならん」って言ってましたね。「我が鬼にならんかぎりは、まわりも鬼にならん」こういうふうな感じで。


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自分にね言い聞かせるような、そういうこう語り口ですね。あれは多分自分に確認をしてたんじゃないですかね。誰から教えられたっていうことじゃないんですね。自分で自分の心の在りようを、何ですかね、良い方に、こう良い方に変えていくような言葉を、自分の生活と働く体験の中から生み出して、自分なりに、それはもう自分の言葉になってしまって、それを確認を繰り返しながら、自分の人格が出来上がっていくっていうか、なんかそういう感じですね。自分にとってその言葉が必要なんですよね。この言葉で救われるっていうことは。たかが言葉っていう―でもすごい力がありますよ。

 


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♪”うちのおやじもハゲ頭”

 

♪“となりのおやじもハゲ頭”

 

♪“ハゲとハゲとがケンカして”

 

♪“どちらもケガのうてよかったな”

 


「それでも歌かい、泣くよりゃましだよ」って言うんです。ほんと私、初めてそれ聞いた時ね、ほんとそうだなと思ったんですよ。泣くよかいいやろがっていう、そういう「泣くよりゃましだよ」って言うんですよ。あの開き直り。ほんと「すごいよ泣くよかいいよね」って言って、みんながそれ思ってほんと納得するんですね、ほんとに。

 

♪“好いて好きおうて相惚れて”

♪“一夜も添わずに死んだなら”

♪“私ゃ菜種の花となる”

♪“あなたチョウチョウで飛んで遊ぼ”

♪“それをどうしよとみな話し”(サノヨイヨイ)

 


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このばあちゃんたち菜の花みたいですもん。あんなにほらなんですかね。筑豊の春はまず遠賀川の菜の花からっていうふうに、まあ私はずっと思ってきたんですけど。あの菜の花の群れを見てると、いっぱいばあちゃんたちが出てくるんですよ、あの中に出てくる。

 

なんかおばあさんたちがみんな―女坑夫たちが全部あそこに集まって面白い話をしたりね。なんかそういう感じがするんですよ。


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菜の花って、ほら、荒れたとこにちゃんと咲くやないですか、毎年毎年。もう真っ黄色にその辺りを全部染めてしまうほど、すごい繁殖力が、生命力があって。見る人もほんとにきれいって思うし、楽しませてくれるし。

 

でもあのほんとはね見たら小さい花ですよ。一つ一つは小さな花が集まってあんなふうにこうなって。だから本当このばあちゃんたちのように思うんです。

 


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私にしたら、もうそれこそ、この春は自分たちがつくった春だみたいな、ものすごく大きな顔して。あのやっぱり強さは、これはやっぱり女たちの筑豊の世界だなと思うんですね。 

 

 ※ NHKEテレ 『地の底の声』より

 

最後は 思わず泣いてしまいました。