もふもふ大好き 怪盗仏陀

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北海道の失われた駅とその街のアイドル。

北海道の失われた駅。


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昭和30年代、40年代 日本一の石炭輸送量を誇った北海道の石勝線夕張支線の清水沢駅。1897(明治30)年2月16日に開駅した清水沢駅は、2017年に開駅120周年を迎えました。その時はマスコミも集まり大変な賑わいだったと聞きます。

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その三年後の2000年3月、石勝線夕張支線廃線に伴い清水沢駅は廃駅になる事が決まっていました。そして今年の2月16日、、その日はささやかながら駅からホーム迄の歩道に蝋燭を灯して清水沢駅開業123周年を祝ったそうです 。

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【駅に行ってきた】Rail工房天都さんより

https://youtu.be/xQ8x_-RZh-g

私が幼かった頃、清水沢駅前で アイヌの人が持っていた子熊の背中に載せて貰った記憶があります。 清水沢駅前は賑やかで駅前にある食堂は学生に大人気でした。ラーメンが150円の時代でした。

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生まれて初めて パチンコをしたのも清水沢駅前のパチンコ屋さんです。父の隣でパチンコ玉を貰って玉を打ちました。 当時はパチンコ玉を一個づつ入れて打つ台でした。 右手にパチンコ玉、左手に手動式パチンコ打ちレバーを…。そして右手をクロスしパチンコ玉を小さい穴に入れ続けます。左手は上から落ちてくるパチンコ玉をひたすら打ち続けます。


f:id:mickymagicabc:20200717143838j:image当時のパチンコ台

 

パチンコ玉がガラスに当たって、とてもうるさかったのを覚えています。椅子があったのかなかったのか。全く記憶にないのですが、以前、調べたパチンコの資料では、当時は立って打っていたと書いてあり、そうだったかな?と記憶を巡らしたことがあります。

今では信じられないですよね。

 

パチンコ台の裏に人がいて 玉の出し入れをしていました。パチンコで勝利すると、たくさんのチョコレートに交換してくれて嬉しかった思い出があります。


f:id:mickymagicabc:20200717062349j:image清水沢駅は大きな駅でした

 

駅には、蒸気機関車ディーゼル機関車、客車等が、いつも停車していて線路は五本くらいありました。この清水沢駅は 夕張支線の中でも大きな駅で、とても重要な役割をしていました。清水沢駅は、三菱石炭鉱業大夕張鉄道の乗り換えの駅でした。あのダルマストーブ列車があった私鉄線です。
f:id:mickymagicabc:20200717104852j:imageダルマストーブ

 

そこは三菱大夕張炭鉱があり、そのヤマからの石炭が清水沢駅に集まります。国鉄の夕張支線からは、御本家の夕張炭鉱のヤマから次々と石炭車がやってきます。更に、地元の清水沢炭鉱のヤマからも石炭が集まります。夕張で掘り出した石炭の殆どが、清水沢駅を通りました。その後 石炭は苫小牧に向かいます。

 

清水沢駅は、人と石炭と荷物がたくさん集まる大集積地の駅でもありました。

f:id:mickymagicabc:20200717045915j:image 大夕張鉄道スハニ1形式スハニ6形客車

 

三菱大夕張鉄道は、古い客車を使っていたので鉄道マニアの写真家が線路脇にたくさん詰めかけていました。大夕張鉄道の廃止は1987年です。廃線の日には全国各地から鉄道マニアが集まり、清水沢にこんなに人が集まるのかというくらいの大盛況だったそうです。

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ダルマストーブ客車は、廃線後に夕張に寄贈され南大夕張駅跡地に野ざらしで保存されていました。その客車の隣にはラッセル車も一緒に置かれていました。90年代後半には、長年野ざらしのままだったのでスクラップ同然の姿になっていました。 その姿を見たとき、私はショックを受けました。

【その後、99年に大夕張鉄道保存の会が発足し、客車だけは修繕保存したそうです】
f:id:mickymagicabc:20200717064516j:image  大夕張駅跡地に保存されたラッセル車

 

夕張市民は、何でわざわざこんな片田舎に、こんな全国の写真マニアが集まるのか全く理解出来なかったようです。当時の夕張の大人たちは、蒸気機関車、客車、レッスル車などの珍しさの価値に全く気付いていなかったのです。

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まさに灯台もと暗し。蒸気機関車をあまりに身近で見ていた為、当然あるもの…見飽きたもの…もっと言うと、生活するには大変迷惑で厄介なモノという印象を持っていました。

 

蒸気機関車は、石炭を燃やし水を水蒸気に変えて動力にしています。蒸気機関車の煙突からは石炭を燃やした黒煙が勢いよく出てきます。ズッシリと重い貨物車や石炭車が連立しているときは、更にものすごい勢いで黒煙が噴出していました。


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1970年前半の 室蘭本線、夕張支線。

坂ノ下田村麿呂さんより

https://youtu.be/p4eoowgrClM

 

蒸気機関車が、力強く走る時は、蒸気を両サイドから勢いよく吹き出し、煙突からは真っ黒な煙がものすごい勢いで噴出します。特に標高の高い夕張では、数ある蒸気機関車の中でも最高馬力のD51【通称 デゴイチ蒸気機関車が主流でした。デゴイチ蒸気機関車の中でも大人気の機関車でした。、車に例えるとフェラーリランボルギーニのような存在です。その真っ黒く黒光りしたデゴイチが、清水沢駅で見渡す限り鎮座していたのです。

f:id:mickymagicabc:20200717080054j:imageD51蒸気機関車。通称 デゴイチ

 

デゴイチが走る時「シュシュ・ポッポ! シュシュ・ポッポ! ガタンガタン。シュシュポッポ! シュシュポッポ!」と こんな音に聞こえます。  そのため幼い子たちは蒸気機関車のことを「ポッポ、ポッポ」と呼んでいました。幼な子を持つ母親は、道の踏切で列車が来るのを待っている間「ポッポ来るよ。ポッポ来るよ」と幼な子をあやします。夕張っ子定番の幼な子のあやし方です。


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しかし、線路脇で生活する大人たちは大変です。デゴイチの煙が凄いので、外に洗濯物も干せません。冬にはラッセル車が掻き分け出来た雪山が真っ黒になるくらいでした。何せ 客車に乗るときは窓を閉めないと煙が入って大変でした。そもそもデゴイチは、めちゃくちゃうるさく、石炭を燃やした匂いで臭いのです。夕張の大人たちにとって蒸気機関車は、厄介モノで迷惑なモノでした。

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私が病院に入院したとき、蒸気機関車の運転手のおじさんが、私の隣のベッドの方で、そのポッポ屋のおじさんにデゴイチの魅力を色々聞きました。その時に私は蒸気機関車の魅力に取り付かれていました。なので夕張の大人たちの気持ちが全く分からなかった記憶があります。


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夕張では、100両以上の石炭車を連結する時もあり、とても珍しい三連結のデゴイチを見ることができました。私も生涯に二回しか見たことがありません。とても迫力のある姿でした。

f:id:mickymagicabc:20200717153156j:image三連結のデゴイチ

f:id:mickymagicabc:20200717111655j:imageSL蒸気機関車時代の三菱大夕張鉄道
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ディーゼル機関車時代の三菱大夕張鉄道 

「三菱大夕張線 清水沢駅発車」

kamesansg2002さんより

https://youtu.be/AJ3qmG5W4ZY

三菱石炭鉱業大夕張鉄道蒸気機関車からディーゼル車になったときは、寂しさを感じました。間もなく国鉄までもSL蒸気機関車デゴイチからディーゼル機関車に変わりました。

f:id:mickymagicabc:20200717085632j:image清水沢駅ディーゼル機関車

 

https://youtu.be/N13hwTIgeLc

車窓・清水沢駅~夕張へ  azaz31415さんより

【1985年8月3日撮影】

 

私が社会人になっていた時、全く知らぬ間に大夕張鉄道廃線になっていて線路はすでに撤去されていました。

f:id:mickymagicabc:20200717085909j:image廃線となった三菱大夕張鉄道

 

北海道唯一の私鉄、三菱大夕張線が廃線となりました。もしこの頃に、SL蒸気機関車の歴史的価値を知る大人が夕張にたくさんいて、動力可能なデゴイチを大事に保存されていたならば、今ごろ夕張の観光の目玉として大活躍していたと思います。20代の頃、地元に帰るたびに友人とお酒を酌み交わしながら、そんな話をしていました。【近年、一度だけ石勝線夕張支線に蒸気機関車が戻ってきて走ったことがあります】

 

この清水沢駅を見たときが、一番 私がショックを受けた時です。当時の清水沢駅の姿はもうそこにはありませんでした。清水沢駅の貨物専用の大きな建物がなくなっていて、ビックリするくらい小さな駅になっていました。

 

我が街のアイドル「ザ・リリーズ


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「好きよ キャプテン」を歌った双子の歌手 ザ・リリーズは、この清水沢駅前商店街の出身です。私の先輩になります。

 

ザ・リリーズ/好きよ キャプテン

https://youtu.be/qUuWiC6vyH4

f:id:mickymagicabc:20200717120159j:image当時の清水沢駅前商店街

 

清水沢駅の隣脇に、昔は大きな貨物集積所がありましたが大夕張鉄道廃線と共に無くなり、大きな駐車場へと変わりました。 そこは夏になると地域の祭りの会場になっていて、ザ・リリーズは幼い頃からそこの常連です。地元でも歌が上手い双子と云われていました。

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ザ・リリーズが「ドリフの8時だよ 全員集合!」の順レギュラーになるくらい有名人になり、ザ・リリーズの家族は東京に移住することになりました。

 

その最後の日、 今までザ・リリーズを応援していた人の家庭に、ザ・リリーズが家族共々挨拶回りをしていました。

 

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雪がしんしんと降っていた夜、雪が積もった自宅の前に 見覚えがある軽トラがエンジンを掛けて止まっていました。

 

「ああ、燕電機の軽トラだ」

 

ザ・リリーズの実家は、清水沢商店街で電気屋を営んでいました。 近づくと 軽トラの助手席にはザ・リリーズの妹さんが乗っていました。 今では有名人…でも 顔見知り…私は彼女に会釈します。彼女も会釈を返していました。

 

それが清水沢で、ザ・リリーズと会った最後になります。


f:id:mickymagicabc:20200717122020j:imageザ・リリーズの実家、燕電気商会

 私が20歳となり、東京に住んでいた時、ある雑誌にザ・リリーズを見つけ久しぶりに彼女ら二人を見ました。何かのファッション誌で 二人は小さな写真で掲載されていました。原宿の表参道で撮影しているようで お洒落な姿をしていました。その時には、ザ・リリーズはお茶の間のテレビにはめっきり姿を見せることはありませんでした。

 

「あぁ 今はこんな仕事をしているんだ…あんなに有名人だったのに…」


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彼女達も「 ザ・ピーナッツ」の継承者「ザ・リリーズ」と謳われた初期のアイドルです。 松田聖子さんより前の時代です。


f:id:mickymagicabc:20200717125128j:image現在の清水沢駅前商店街

今は清水沢駅もなくなり、清水沢駅前商店街は、その当時の姿を忍ばせるモノすらありません。

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閉鎖した清水沢駅


f:id:mickymagicabc:20200717125154j:image清水沢の線路もすぐに失くなります


f:id:mickymagicabc:20200717125405j:image唯一、学生時代から記憶に残る連絡橋

 

ただ、深い記憶の中に、私の知っている古里があります。それが今でも鮮明に生き続けています。   


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記憶に残る幼い頃の清水沢駅

 

…ネットで、清水沢駅デゴイチを見つけ、思わず書き綴りました。

 

4年前の清水沢駅と清水沢商店街

Interurban6304「真実の風景」より

https://youtu.be/KYRqMfAsT0c

https://youtu.be/rHzV-mzpveM

 

私の卒業した清水沢小学校、今や廃棄です

すけほぴさんより

https://youtu.be/f5cGCMPXzr4

 

国鉄最後の特別放送 IC780さんより

https://youtu.be/WpaH2xsoZYo