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巨星、墜つ!


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巨星、墜つ。
ジャニーズ事務所代表取締役ジャニー喜多川こと喜多川擴【ひろむ】氏が87歳で亡くなりました。彼が成し遂げた偉業の数々、そして彼が手掛けたスター達の伝説は、未来永劫 芸能界で光続けるでしょう。




ジャニー喜多川さんは、米・カルフォルニア州ロサンゼルス生まれ。父親は、喜多川諦道【たいどう】氏、高野山の僧侶です。1924年に渡米しロサンゼルスのリトルトーキョーにある高野山米国別院の第三代主監を務めていました。1950年、高野山米国別院にステージを設け、美空ひばり等 日本から来た芸能人を招聘、し、ジャニー少年は 彼らの世話役を務めました。

その後、ジャニーは朝鮮戦争に従軍し、朝鮮半島戦災孤児を集め、洗濯の仕事をさせ、お金を配っていたようです。

朝鮮戦争後、在日米軍の宿舎だった代々木のワシントンハイツ【現在は代々木公園】に住み、近くの公園で 近所の少年を集め「ジャニーズ少年野球団」という野球チームを作りました。ジャニーはチームの中から 好みの四人の少年を選び アイドルグループ、ジャニーズを結成し タレント事業を始めました。その中には、のちのあおい輝彦がいました。

最初は ある事務所に業務提携として、ジャニーズを預けていましたが、ジャニーズの人気が出て来ると、ジャニーは独立を宣言し 自らジャニーズ事務所を開業しました。 業務提携した事務所とトラブルになり、裁判沙汰となりました。 その裁判で、ジャニー喜多川が 少年に対して行っていた ホモセクハラ問題が明らかになりました。【1967年】

裁判では生々しい証言がありました。

1964年6月12日、ジャニーズの仲間だった一人の少年は「毎晩のように、ジャニーさんにいたずらされている」と 業務提携していた社長に相談しました。ジャニーは少年に 卑猥な写真を見せて興奮させ、少年にいたずらを繰り返していたという。調査すると、ジャニーズのメインメンバー四人を含め15人の少年が被害に遇っていました。

しかし、裁判ではジャニーズの四人が証言台に立ち、ジャニーから卑猥行為を受けたかどうか尋問を受けたが 四人はこれを否定しました。

ジャニーは「同性愛って何ですか? 口にするのも汚ならしい。そんな事実はないですから」

しかし、数年後 姉のメリーは ジャニーの問題について「弟は そういう病気なんだからしょうがないでしょ」と言っていたようです。

その後、ジャニーのセクハラ疑惑は止むことなく 更に疑惑が深まります。 1988年、元フォーリーブス北公次が暴露本を出版します。「光GENJIへ、元フォーリーブス北公次の禁断の半生記」 北公次フォーリーブスのリーダーで、一番の人気者でした。

この暴露本にも 生々しい体験が書かれていました。
北は16歳でジャニーに誘われ、四谷のお茶漬け屋の2階に住み込むことになったが、ジャニーは 北が寝ていた布団に入り込んできた。毎日のようにそれが続いたようです。 「俺の男性器にジャニー喜多川さんの手が、、俺の男根は意思に反して徐々に波打つ、、ジャニーは 俺の首筋から頬にかけて口をつけてくる。その間もずっと男根がまさぐられていく、、これがホモというやつか、、」 【元フォーリーブス北公次の禁断の半生記より】

北公次が所属していた フォーリーブスが終わるまでの 約四年半、ジャニー喜多川の行為は ほぼ毎日続いたという。北は断る事ができなかった。 「掴みかけていたアイドルの座から引きずり降ろされないために、嫌だ嫌だと思っていても、夜の関係は辞められなかった。ジャニーさんに可愛がられなくなったら最後だと諦め、逆にジャニーさんを必死に信じていた」

その後、週刊文春が 数十回に渡り「芸能界のモンスター追及キャンペーン」と称して 大々的に 反ジャニーズ事務所キャンペーンを展開し、ジャニー喜多川氏の様々な ホモセクハラスキャンダルがセンセーショナルに暴露されました。

週刊文春は 12人の元ジュニアの少年に取材し 性に飢えた 70歳の老人の欲望の虜となった犠牲者からの 様々なインタビューを掲載しました。

週刊文春は 「青年育成条例」や刑法の強制わいせつ罪、準強制わいせつ罪に抵触すると その社会的責任を問いただしました。

ジャニーズ側は、名誉毀損で訴訟を起こし法廷で決着を着けようとしたが、結果 ジャニー喜多川側の敗訴。判決は確定した。

二審判決文は「喜多川が 少年らに対しセクハラ行為をしたとの各証言は 信用することができ、喜多川が少年たちが逆らえばステージの立ち位置が悪くなったり、デビューできなくなるという抗拒不能な状態にあるのに乗じ、セクハラ行為をしているとの本件記事は、その重要な部分について真実であることの証明があった」