もふもふ大好き 怪盗仏陀

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異民族との初めての出会い(アイヌ民族と和人の場合)

アイヌと和人との初めての出会いが記録に残っています。その証言をそのまま伝えます。


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和人 安達由太郎さんの証言。

 

安住の地を求めで翌二十五年家族を連れて山形県を引揚げ北海道に向った。その中に私がおったんです。五才でしたから詳しいことは解らないが、苦労して来ました。今でも想い出すことは、青森より津軽海峡を渡るのに帆船(十トン未満)に乗り、出帆する時は鏡のようななぎでも海峡の灘は波高く、船が木の葉のように揺れ、船酔で死人のようになっている者、念仏を唱えている者、まったく生きた心地がしなかったものです。

 

函館より国縫まで二五里の道のりを徒歩で五日間かかつてたどりつき(途中野宿したこともある)、さらに五里の道のりを歩いてようやくこの地に着きました。道路の両側は自然木がうっ蒼と茂り、周り一面の熊笹で昼でもうす暗く、淋しいところだった。親は休む暇もなく拝み小屋づくり、砂金採取の道具づくりと、あすからの生活に希望が湧き精を出したものです

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当時の悪らし?方は、拝み小屋を熊笹ヨモギで屋根や周りをつくり、中はフスマがわりにヨシで編んでたれさせて部屋づくりをし、地べた熊笹を厚くひいて、その上に空米俵をひき、雑古寝をしたものです

 

蚊・アブ・ブユがひどく、特に蚊に悩まされました。草を燃やし、小屋から追いらいました。熊の出没も多く、小屋の周りに石油カンを鳴らすように仕掛を置いたり、道路を歩く時はラッパを鳴らして歩きました。

 

日用品は、殆んど国縫まで歩いて買いました。主に米(内地米)、衣類、石油、調味料などでした。荷を背負って、国縫があるといっても実際の用にただず、うっそうと茂る大木、重なり合った梢、その中を縫って横行する熊、キツネ、てん、むじな等、ほんのわずかの人が通って行くのみででした。

 

野菜、穀類は私たちの手でというわけで、小屋の周りに無願開墾し、野菜(ナッパ)、ヒエ、イナキビ、トウモロコシ、ジャガイモ等の作物を栽培しましたが、収穫はよくなかった。なにせ無肥料であったから。利別川は、鮭、鱒が豊富で魚には事欠かなかったものです。


嗜好品であるタバコは山形県より送らせたホロキという木を栽培し、これを細かく切ってキセルにつめて吸いました。マッチは貴重品なので周りに生えているガマの穂をかわかし、焼いて灰にし、メノウ石を火打ち石にして灰に火を移して使ったもんです。あの頃は無からそれを生みだすしかないんで、本当に苦労の毎日でした。

 

人は必らずといってよいくらい心の支えを求めるもので入地当時、お札を大木に打ちつけて無事安泰を祈りました。そして一六戸になった時、みんなで相談して社を建立した。それが今の山神神社です。



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安達さんの父は山形県出身の砂金採取業者で、明治19(1886)年に初めて北海道に渡り、利別川流域の砂金採取事業の監督をしていました。さて、渡島半島の山奥で和人とアイヌはどのように出会ったのでしょうか。


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アイヌは入地当時10人位附近に生存しておったようでした。アイヌのことをオヤジ(熊という意味)といっておったもんです。私どもに始め警戒しておったようだが、お互いに乱暴をする者がなかったようだった。
 

アイヌはもっぱらマルポという道具を自作し鮭、鱒漁をしておったもんです。マルポを魚めがけて投げ命中させるあたりは達人でした。
 
クチャリキという酋長がおり、この酋長の支配下にあったようでした。私達移住民との接触の動機は解らないが、お互い乱暴をすることがなかったので、アイヌの方から近づいて来たようでした。

 

(クチャリキは)酒が大変好きで、夕方小屋の近くに来ると地べたに頭をつけ、平身低頭の挨拶をし、よく魚をもってきてくれました。(私たちも)酒、タバコをあげたものです。酋長が酒を呑む時ははしで顔ひげを上にあげ、酋長らしい見事な呑みぷりでした。

 

和人入植者と先住アイヌはお互い平和に出会い、すぐに助け合う互助関係を築きました。

これが北海道の各地でありました。更に、紹介するのは、アイヌが和人をおもてなしをする場面です。


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和人 南川松栄さんの証言。

 

南川松栄さんは福井県生まれで、明治29(1896) 3歳で父に連れられて渡道しました。これは、今金町豊田(アイヌにはモウセウシと呼ばれていた)コタンの開祖であるアイヌの笹森来助さんの話です。


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来助の熊狩りは、主にアマッポを用い(ブス矢へ矢の先にアイヌ産の毒をつけた矢)で熊を射ていた。彼は、熊を射ると部落中の人たちに知らせ、自分の自慢をするためにその熊を披露した。肉は十センチ四方程にプッ切りにし、それを大きな鉄なべで塩煮にし食べていた。その後だんだんと肉の切り方も小さくなり、みそ煮をするようになった。
 
彼は肉をえさにし、焼酎を飲み集まった人々に肉を御馳走し、得意顔で熊射の自慢話に花を咲かせ、酔うとむしろの上にごろ寝、極めてのんびりとした毎日を送っていた。
 
モウセウシの地に炉のたき火を燃やした来助の丸木小屋のあとは、その後、部落郷土史を研究していた豊田青年団が発見し(昭和三十九年)白樺の標札を立て、豊田発祥の地として記念している。


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穫った熊を鍋にして自慢げに和人入植者に振る舞い、酔っては何一つ警戒感無く幸せに眠る来助─ 和人とアイヌはお互いに人として接していたのが分かる。 どこぞの民族とは違い、お互いに決して争いをせずに出合っていました。むしろ友好関係を築いていたのです。

これが北海道の真実です。

 

今金町開拓回想録編集委員会『今金町開拓回想録』より

https://www.hokkaidokaitaku.club/kyousei/senkusya/2020/teshiozakki.html