銀閣寺の銀沙灘と向月台
京都・銀閣寺…銀閣寺の砂のお庭【銀沙灘】と砂の山【向月台】…有名ですよね。修学旅行で行った方もいると思います。
銀沙灘と向月台…江戸時代に造られたとか。しかし、どんな意味があるのか住職ですら分からないといいます。特に向月台は 全く意味が分からないとか…
で、私が推察します。
…あの向月台は、正真正銘の砂の山です。。お庭【銀沙灘】で使う白砂が余ってしまい、庭師の棟梁が、一時的な砂置き場として工夫を凝らして台円錐形の砂山にしました。棟梁なりに周辺の風景に合わせて造ったのが今の形。棟梁は、次の庭の修復の為にと思っていましたが、数日後、日本の美に造詣が深い人物が銀閣寺に現れ「これこそ、わびさびよ。銀閣寺にぴったりな砂山。うん。素晴らしい」と大絶賛。
棟梁は、寺の住職からお礼と共にその話を聞き、壊す事が出来なくなってしまいました。棟梁は、この話を墓まで持っていこうと決め、生涯誰にもその真実は話しませんでした。
ある日、住職は棟梁に、あれはどんな意味があるんじゃと聞いた。 棟梁はとっさに
「台の上に座り月を見る。どこかの文献に書かれていた。とても有難い形なんじゃ」
「ほう、月を向かえる台じゃとな。ならば、向月台と名付けよう」
棟梁は、益々 真実を墓まで持っていこうと心に固く決めるのでした。…そして現代に至ります。
…そんな古くない江戸時代に造られたモノで、意味や理由が全く分からないって ちょっと不思議ですよね。 そんなところから発想しました。
今 伝えたいこと
日本では毎年2万人もの方が、寿命を全うせず自ら命を絶っています。特に新型コロナ渦で、若い方の自殺者が増えています。人が死ぬ前に最も後悔することが三つあるそうです。
①他人がどう思うか気にしすぎた。
②自分が思い描く人生を歩めば良かった。
③もっと家族との時間を大切にすれば良かった。
社会に一歩出ると、誤解と偏見に晒されます。時として無責任に放たれた他人の言葉が凶器となって、あなたの心に突き刺さるかもしれません。周囲の無関心が、あなたを追い詰めるかもしれません。あなたの全てを真剣に見守っていない人の言葉を、100%鵜呑みにしないで下さい。
この世の中で他人に放たれる言葉の多くは、誰かの一面だけを見て憶測だけで放たれる無責任なものです。SNSでの誹謗中傷や悪口もそうです。あなたに対し人生を掛けている人の言葉には真剣に耳を傾けて欲しいと思います。
誰かが視野の狭い価値観を一方的に押し付けて来るかもしれません。狭い世界しか知らない人ほど、社会とはこういうものだと狭い価値観を押し付けてきます。それは自分自身が納得した人生を過ごしていないから、他人に押し付けることで、自分を正当化しているだけです。どうか相手にしないで欲しいと思います。
私たちは他人との比較や競争に勝ち、誰かを打ち負かして屈服させるために生きている訳ではありません。私たちは他人を納得させる為に生きている訳ではありません。皆、自分の為に生きています。どうか自分の幸せの為に時間を使って下さい。他人がどうこうではなく、自分の自己実現の為に徹底した努力を貫けば良いのです。私たち誰もが必ず死がいつかきます。だからこそ 今、目の前の瞬間瞬間を大切に生きて欲しいと願っています。
大切な人とあと何回、手を繋ぐことが出来るでしょう。可愛いお子さんをあと何回、抱き締めることが出来るでしょう。遠く離れた田舎の両親にあと何回、話すことが出来るでしょうか。もし、大切な人にまだ伝えていない感謝の言葉があるなら、真っ直ぐに伝えて欲しいと思います。あなたが生きるのに苦労しているなら、その分それを優しさとして大切な人に思いっきり与えてあげて下さい。もし、あなたの回りに目標となるような人物がいないのなら、目標となる人物を見つける旅をしていきましょう。世の中は広いです。きっと あなたにしか出来ないことがあるはずです。
Twitterでこんな呟きを見つけました。
死ぬ前に一度、行ったことのない土地に行ってみるといい。観光地じゃなくてもいい。切符を買って知らない街で降りて、知らない住宅街を歩きながら誰かの生活を感じてみると、自分が死にたいのか、今の場所から消えたいのか分かる時がある。
誰とも関わらなくても社会で生きていいみたいやで、本当は。
ふと ダライ・ラマの言葉を思い浮びました。「一年で何度か見知らぬ地を訪れなさい。まだ見たことのない地の人と出会いを見つけなさい」…何か良いことあると言っています。一人旅は発見がたくさんあります。今は旅行すら出来ない状況ですが、いつか気兼ねなく旅行ができる日を待ってます。
ダライ・ラマの言葉…
「もし恐怖を覚えるだけの根拠がないなら、分析的に瞑想することだ。それが恐怖を軽減してくれるだろう。これが適切な方法である」
「血みどろの惨劇にわれわれは驚く。われわれの自然な状態がそんなものではないと思うからである。だが、その結果、多くの人々は人間の本性は悪であるとの印象を抱くようになる。テレビでこのような人間の悪い要素を見る子どもたちにとっては特に、これは心理的に非常に悪いことである」
「私は常々、近代的な変化は単なる表面的な変化であって、深い部分では人間は変わらないと信じている」
「考え方が前向きになっていれば、たとえ四方を敵に囲まれていても、心の平穏を失うことはありません」
「心の平安があれば、健康もついてくるでしょう。穏やかな心を持つ人は、よい友人たちを引きつけます。一般的にみて、幸福な状態にあるということは、お金も引きつけているということです」
「私たちはみな、生まれたときから同じ人間です。国王も栄養失調の子どもたちも、みんな同じ人間です。同じ権利を持っています。同じ潜在能力を持っています。ですから自信を持って一生懸命がんばってほしいと思います」
「悲観的になって自分は成功できないなどと思っていたら、進歩は望めません。他人にはかなわないと言う考えこそが、失敗への第一歩です」
「わたしたち人間には、愛や思いやりを称えられる能力があります。このささやかな能力こそ、人間のもっとも大切な天分だとわたしは思うのです」
「あなたを傷つけたいと思っている敵に出会ったら、 それを忍耐や寛容を覚える機会だと考えましょう」
「無関心、ことに他人に対する無関心は、最悪の欠点です」
「誰も生まれつき敵や友だったわけではありません。親類縁者がつねに友であるという保証もありません。「敵」も「友」も、人びとの自分に対する接し方で決められているものです」
「幸福は思いやりの心から生じるものであって、怒りや憎しみからは生じません」
「私たちの人生の目的は、幸せになることなのです」
「もし、体の表面に腫れや吹き出物があれば、それは肉体がどこか病んでいるからである。腫れや吹き出物といった兆候を手当てしても十分ではない。もっと深く観察し、主たる原因を発見しなければならない。根本的な原因を取り除くように努めるべきである。そうすれば、兆候は自動的に消滅する」
「心の本質は、池の水のようなものです。嵐で水がかき乱されれば、池の底の泥が浮き上がって水をにごらせます。しかし水の本質は汚いものではありません」
「私たちが本当に育てなければならないのは、「偏見」が一切存在しない愛です。相手が自分に対してどのような表現をしてくるかによって心に生じる、一過性の感情ではありません。たとえ相手がどのようなことを自分にしてきても、相手に対して持つことのできる種類の愛情なのです」
「すべての問題に対処できるようになるには、私たちの心と体の基本である土台を安定したものにすることが大切ではないかということです。つまり、常に自分がゆったりした心で自分自身を信じることができ、そしてほかの人たちのことも信じられるという状態です」
「自分のことしか考えない人は、苦しみのうちに人生を終えます。他人のことしか面倒をみない人は、考えなくても自分の面倒もみています」
「あなたが勝利を失っても、そこから学んだことを失わないようにしなさい」
「私たちの本当の敵は、 無知、憎しみ、欲望、嫉妬、傲慢という心の毒です」
「「死」はすべての人に訪れます。「死ぬ時期がくれば、だれもがその時期をうまく乗り越えられる」ということです」
「充足させたと思ってもいっそう強くぶり返してくるのが欲望の本性です。この罠にかかる人は、海水を飲む渇いた人に似ています。飲めば飲むだけ、喉が渇きます」
「子どもを褒めるのは、行為を正す最も効果的な方法のひとつです。たとえば、誤りを指摘する前に、まず子どもを褒めるのです。『きみは賢いんだから、この間違いを直すことができるよね』と言うのです」
「何百万もの人が飢えているアフリカでは、武器は手に入るが食料は手に入らない。この地域こそ本当の援助を必要としているのに、何百万ドルもの資金が武器の購入に消費されている。これは悲しむべきことである」
「問題解決として重要なのは、フェイス・トゥ・フェイスで、顔を向き合わせて話し合うことです」
どうでしょう。どれか一つでも あなたの心に残る言葉が見つかったでしょうか。
夕張の歴史 1978年~ゆっくり制作中
昭和52年( 1977年)夕張の人口‥48.663人
10月1日 山田洋次監督「幸福の黄色いハンカチ」公開日。撮影は1977年5月1日釧路から始まった。夕張ロケは5月18日〜5月22日。撮影は5月22日〜5月27日まで。二日間天候不順で撮影中止した。
映画「幸福の黄色いハンカチ」製作発表(左から)山田洋次監督、武田鉄矢、倍賞千恵子、桃井かおり、高倉健(1977年4月)
夕張市役所
●昭和53年(1978年)
夕張の人口‥47.027人
6月:市役所庁舎新築落成
7月:石炭の歴史村建設工事着工
7月:丁未風致公園完成
丁未風致公園(夕張最北端)
●昭和54年(1979年)
夕張の人口‥44.613人
4月:市長と市議会議員選挙執行
4月:市長に中田鉄治氏(無投票当選)
7月:メロンブランデー醸造研究所を開所、試験研究開始
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%94%B0%E9%89%84%E6%B2%BB
●昭和55年( 1980年)
夕張の人口‥41.715人
3月:北炭清水沢炭鉱閉山
3月:夕張市新総合開発計画の策定
7月:石炭博物館開館
石炭博物館(2018年リニューアル、2019年4月模擬坑道で火災発生、現在は本館と地下展示室の営業のみ再開)‥現在、夕張市石炭博物館模擬坑道の復旧にあたり、2022年11/7~2/4までクラウドファンディングによる寄附金を募っています。寄附金は模擬坑道の防災設備整備に係る費用等の一部に活用します。皆様からの温かいご支援をお願い申し上げますhttps://www.furusato-tax.jp/gcf/1896
●昭和56年(1981年)
夕張の人口‥40.829人
3月:増補改訂夕張市史発行
3月∶鈴木直道 埼玉県春日市で生まれる
10月:石勝線営業開始。紅葉山駅を新夕張駅と改名
10月:北炭夕張新炭鉱ガス突出事故発生死者93名
きりんさん【考察系YouTuber】
石勝線 旧紅葉山駅(現在は新夕張駅)
北炭夕張新炭鉱ガス突出事故
●昭和57年(1982年)
夕張の人口‥38.568人
4月:中国撫順市と友好都市締結
10月:北炭夕張新炭鉱閉山
北炭夕張新炭鉱閉山
●昭和58年(1983年)
夕張の人口‥35.190人
4月:市長と市議会議員選挙執行
4月:市長に中田鉄治氏再選(無投票当選)
6月:開基95年、市制施行40周年、石炭の歴史村全村オープン記念式典挙行
石炭の歴史村オープン
●昭和59年(1984年)
夕張の人口‥33.544人
8月:めろん酒等完成、発売始まる
夕張めろん酒
●昭和60年(1985年)
夕張の人口‥32.379人
5月:三菱南大夕張炭鉱でガス爆発事故発生、死者62名
三菱南大夕張炭鉱でガス爆発事故
●昭和61年(1986年)
夕張の人口‥31.406人
3月:経済同友会賞「美しい都市づくり賞」受賞
3月:核兵器廃絶平和都市宣言。
9月:総合体育館完成
9月:ホテル「シューパロ」オープン。
ホテル「シューパロ」オープン
●昭和62年(1987年)
夕張の人口‥28.596人
4月:市長と市議会議員選挙執行
4月:市長に中田鉄治氏三選(無投票当選)
9月:開発道路夕張・芦別線開通
10月:北炭真谷地炭鉱閉山
中田鉄治市長(仮面ライダーBLACKに出演1988年6月)http://yctyct.blog64.fc2.com/blog-entry-1540.html?sp
●昭和63年(1988年)
夕張の人口‥25.921人
10月:開基100年、市制施行45周年記念式典挙行
炭鉱から観光
平成
●平成元年(1989年)
夕張の人口‥24.440人
1月:北海道主催「北海道まちづくり100選」に石炭の歴史村、丁未風致公園が選定
4月:通産省主催「ふるさと産業50選」に石炭の歴史村が選定
9月:第44回国民体育大会相撲競技開催
12月:公共下水道事業開始
●平成2年(1990年)
夕張の人口‥21.824人
2月:第1回ゆうばり国際映画祭開催
3月:三菱南大夕張炭鉱閉山
4月:防犯安全都市宣言
第1回 ゆうばり国際映画祭
三菱南大夕張炭鉱閉山
●平成3年(1991年)
夕張の人口‥20.752人
1月:ホテル「Mt.レースイ」オープン
ホテル「Mt.レースイ」
4月:市長と市議会議員選挙執行
4月:市長に中田鉄治氏四選(初選挙戦)
夕張市で20年ぶりの市長選挙戦となる。現職の中田鉄治市長、初の選挙戦を戦った。
任期満了に伴う夕張市長選挙は平成3年4月21日投票、即日開票のされ、現職の中田鉄治(65歳)市長が、新人の藤田正春(55歳)氏を破り4選を決めた。20年ぶりの選挙で中田氏批判票が予想外に多く同陣営の衝撃が大きかった。
当日有権者数 16,806人
当日投票者数 14,637人
投票率 87.09%
当選 中田 鉄治 8,365票
藤田 正春 5,853票
ホテル「マウントレースイ」オープン
●平成4年(1992年)
夕張の人口‥19.956人
4月:「ゆうばり国際冒険ファンタスティック映画祭’91」フジサンケイグループ広告大賞イベント賞を受賞
4月:夕張・撫順友好都市締結10周年記念式典挙行(撫順市友好代表団来夕)
5月:北海道企業局滝下発電所竣工
9月:夕張・撫順友好都市締結10周年記念夕張市友好代表団(団長夕張市長)が訪中
●平成5年(1993年)
夕張の人口‥19.202人
4月:道道夕張・芦別線が国道452号に昇格
9月:第17回婦人防火全国大会の開催
11月:市制施行50周年・開基105年記念式典挙行
12月:富野地区水道施設完成
●平成6年(1994年)
夕張の人口‥18.535人
3月:「ゆうばり国際冒険・ファンタスティック映画祭」日本ファッション協会生活文化賞を受賞
4月:夕張鹿鳴館(旧北炭鹿の谷倶楽部)観覧を開始
夕張鹿鳴館《一般市民にオープン》
4月:市立ユーパロ幼稚園を開設
6月:平和運動公園球技場、多目的運動広場完成
平和運動公園球技場 多目的運動広場
8月:第24回全国中学校相撲選手権大会開催
●平成7年(1995年)
夕張の人口‥17.895人
3月:平和浄化センター竣工(公共下水道事業一部供用開始)
4月:市長と市議会議員選挙執行
4月:市長に中田鉄治氏五選
《7782票 中田 鉄治 -- 5076票 樋浦 善弘》
4月:ファミリースクール「ひまわり」(旧夕張北高等学校)オープン
4月:消防本部・消防署、清水沢に移転
4月:訪問看護ステーションオープン
10月:平成7年国勢調査実施(7,593世帯、17,110人)
12月:市連絡所オンラインシステム運用開始
●平成8年(1996年)
夕張の人口‥17.340人
4月:夕張長いも焼酎「ゆうばり寅次郎」販売開始
6月:「夕張岳」国の天然記念物に指定
7月:夕張留守家庭児童保育所開設(清水沢小学校内)
7月:夕張市のインターネットホームページ開設
10月:暴力追放都市宣言
11月:夕張緑陽工業団地造成
12月:「ユーパロの湯」オープン
12月:北海道横断自動車道「夕張、清水間」整備計画区間に正式決定
●平成9年(1997年)
夕張の人口‥16.785人
4月:夕張緑陽工業団地分譲開始
4月:ゆうばりマウンテンシティ実施機構設立
4月:夕張留守家庭児童保育所開設(若菜中央小学校内)
8月:夕張・撫順友好都市締結15周年記念式典挙行(撫順市友好代表団来夕)
10月:夕張・撫順友好都市締結15周年記念夕張市友好代表団(団長秋元副議長)が訪中
10月:在宅介護支援センター開設
●平成10年(1998年)
夕張の人口‥16.211人
1月:石油・天然ガス基礎試錘「夕張」が開坑
4月:フランス・パリ市で開催の国際都市活性化技術会議で夕張市が「特別栄誉賞」を受賞
5月:中国撫順市友好代表団来夕(周 銀校市長)
5月:中国撫順市から夕張市長に対し撫順市栄誉市民証が伝達授与
6月:虹ヶ丘パークゴルフ場オープン
11月:ゆうばり追想110年・市制施行55周年記念式典挙行
12月:北海道横断自動車道「夕張、トマム」間工事施行命令でる
●平成11年(1999年) 夕張の人口‥15.821人
4月:情報公開制度施行
4月:市長と市議会議員選挙執行
4月:市長に中田鉄治氏六選
《6594票 中田 鉄治 --5007票 小林 吉宏》
5月:緑陽工業団地第1号進出企業「ほくれい」夕張工場完成
7月:石炭の歴史村内にローラーリュージュオープン
9月:夕張市名誉市民に石川十四夫氏
10月:北海道横断自動車道「夕張、千歳」間開通
10月:紅葉山パークゴルフ場オープン
11月:ケアハウス・レインボーヒルズ開設(社会福祉法人幸照会)
●平成12年(2000年)夕張の人口‥15.433人
2月:老人保健施設虹ケ丘開設(医療法人英仁会)
4月:介護保険スタート
4月:容器包装リサイクル法による容器包装廃棄物の分別収集開始
4月:ゆうばり化石のいろいろ展示館オープン
10月:平成12年国勢調査実施
●平成13年(2001年)夕張の人口‥15.115人
6月:北海道立夕張高等養護学校開校
7月:郷愁の丘ミュージアム・生活歴史館「郷愁・むかしを訪ねて」オープン
10月:夕張市保健福祉センターオープン
●平成14年(2002年)夕張の人口‥14.719人
3月:ロイヤルパインズ(株)撤退
7月:夕張・撫順友好都市締結20周年記念式典挙行(撫順市友好代表団来夕)
8月:住民基本台帳ネットワークシステムによる第1次サービス開始
9月:夕張消防公設100年記念式典挙行
10月:夕張・撫順友好都市締結20周年記念夕張市友好代表団(団長夕張市助役)訪中
10月:情報キオスク端末機、市内4カ所設置
10月:マウントレースイリゾート施設を市が取得
●平成15年(2003年)夕張の人口‥14.235人
4月:市長と市議会議員選挙執行
4月:市長に後藤健二氏当選
10月:夕張市名誉市民・前夕張市長 故 中田鉄治殿 夕張市葬の執行
11月:ゆうばり追想115年・市制施行60周年記念式典の挙行
●平成16年(2004年)夕張の人口‥13.883人
1月:道道札幌夕張線夕張トンネル開通
3月:JR楓駅廃止
7月:平和運動公園野球場オープン
12月:市道若菜千代田線道路改良工事竣工
●平成17年(2005年)夕張の人口‥13.509人
3月:夕張中学校閉校
9月:「北の零年」希望の社オープン
9月:夕張市防災訓練実施
9月:夕張市名誉市民に中沢健次氏
10月:平成17年国勢調査実施
●平成18年(2006年)夕張の人口‥13.045人
6月:財政再建団体入りの表明
8月:夕張市中学生友好交流団の派遣(中国撫順市)
9月:富野公衆便所、滝ノ上公衆便所閉鎖
12月:鹿の谷公衆便所、紅葉山公衆便所、楓パーキングエリア閉鎖
●平成19年(2007年)夕張の人口‥12.307人
3月:財政再建団体入り
3月:夕張市水泳プール(若菜、登川、真谷地、青葉、沼ノ沢、末広、紅葉山、清水沢)の廃止
3月:市立夕張図書館の廃止
4月:市長と市議会議員選挙の執行
4月:市長に藤倉 肇氏当選
●平成20年(2008年)夕張の人口‥11.874人
3月:スウィミングセンターの屋根崩落
3月:幌南小学校閉校
3月:幌南中学校閉校
9月:夕張市養護老人ホームの廃止
12月:道道札幌夕張線新ルート開通
●平成21年(2009年)夕張の人口‥11.439人
1月:夕張市農産物処理加工センター等売却
4月:(株)花畑牧場夕張操業
5月:旧北炭鹿ノ谷倶楽部譲渡
7月:(株)夕張ツムラを設立
7月:清水沢プール開業
9月:真谷地リサイクルセンターの設置
●平成22年(2010年)夕張の人口‥11.012人
3月:清水沢中学校閉校
3月:千代田中学校閉校
3月:緑陽中学校閉校
4月:夕張市立夕張中学校開校
9月:真谷地デジタルテレビ中継局開局
10月:夕張新千代田デジタルテレビ中継局開局
10月:平成22年国勢調査実施
●平成23年(2011年)夕張の人口‥10.654人
3月:各市内小学校(6校)の閉校(夕張小学校、若菜中央小学校、清水沢小学校、緑小学校、のぞみ小学校、滝ノ上小学校)
4月:ゆうばり小学校開校
4月:市長選挙と市議会議員選挙執行
4月:市長に鈴木直道氏当選
6月:道の駅「ゆうばりメロード」の開所
6月:旭川夕張会設立総会
9月:「ゆうばり歴史・教育資料室」オープン
10月:夕張鹿鳴館の国の登録有形文化財(建造物)の登録
10月:夕張市立すくすく学童及び夕張市地域活動支援センターアルファ開所
●平成24年(2012年)夕張の人口‥10.390人
2月:夕張市美術館屋根崩落
4月:夕張市消防団女性分団の発足
4月:市営住宅「歩団地」の完成
4月:鹿の谷1丁目JR石勝線法面崩落
4月:社光地区の河川災害発生
7月:国、北海道及び夕張市の三者協議の実施
9月:「夕張シューパロダム湖周辺の橋梁群とその景観」を市指定文化財に指定
●平成25年(2013年)夕張の人口‥9.968人
1月:夕張温泉夕鹿の湯オープン
3月:市営団地「萌団地」の完成
5月:普通河川プトマチャンベツ川が降雪・融雪により土砂ダムが発生
11月:「歩団地」が2013北の地域住宅賞で北海道知事賞を受賞
●平成26年(2014年)夕張の人口‥9.584人
2月:ゆうばり共生型ファーム開所(旧夕張小)
9月:北海信用金庫沼の沢代理店の閉店
10月:「歩」団地が第26回住生活月間功労者国土交通大臣表彰受賞
12月:養護老人ホーム夕張みどりの園が旧のぞみ小学校を改築移転し「夕張紅葉園」と改称し、開園
●平成27年(2015年)夕張の人口‥9.205人
1月:地域再生計画認定
3月:旧夕張市民会館の閉鎖
4月:夕張シューパロダム供用開始
4月:市長選挙と市議会議員選挙執行(無投票)から市長に鈴木直道氏(再選)
7月:夕張市汚泥再生処理センター開設
10月:平成27年国勢調査実施
10月:清水沢駅無人化
10月:北海信用金庫本町出張所の廃止
12月:夕張メロン「地理的表示保護制度」登録
12月:テレビ北海道(TVh)清水沢中継局開局
●平成28年(2016年)夕張の人口‥8.851人
12月:本町3丁目児童遊園等4遊園を廃止
●平成29年(2017年)夕張の人口‥8.470人
2月:マウントレースイスキー場等5施設売却
松下政経塾 石井あゆ子さん「塾生レポート」
https://www.mskj.or.jp/report/2894.html
夕張市議 今川和哉市議
https://kazuyaimagawa.jp/2020/03/07/1116/
「切り売りされる北海道の夕張記事について」
https://kazuyaimagawa.jp/2020/12/25/1256/
「夕張リゾート破産申請について」
夕張市破綻の要因になったこと ③
夕張炭鉱のピークは1960年。人口は11万6908人を抱えるなど発展したが、戦後復興を支えてきた炭鉱は60年代以降バタバタと閉山していく。93人の犠牲者を出した北炭夕張新鉱の閉山で、市は大打撃を被った。北炭は会社更生法の適応を受け、市の債権14億313万円のうち、わずか1億5781万円しか支払わなかった。市は借金を踏み倒されただけでなく、26億円で北炭保有の土地を購入した。閉山後の処理の総額は、580億5000万円(1979~94年度)3割の185億3000万円は国や道の支出金だった。夕張の炭鉱は二つに集約された。北炭(三井系)と三菱系、両社の社風の違いから来る市民意識の違いも注目すべきだ。
三菱大夕張炭鉱(1929年~1990年閉山)
北炭夕張新鉱(1975年~1982年閉山)前身の北炭夕張炭鉱は1977年に閉山。1981年10月 16日、北炭夕張新炭鉱ガス突出事故発生。小学生時代の友人が亡くなっていたことを数年後に知った。
北炭は市全域にあるが、三菱はシューパロ湖方面の大夕張、南部地区にあった。独自に大夕張鉄道を走らせ、町は不夜城ように輝いていた。同じ夕張だが全く別々の文化をはぐくんだ。三菱の人は 夕張に殆んど行かなく、清水沢周辺の飲み屋街に集まっていた。同じ夕張市民だが「夕張に行ってくる」と表現していた。「北炭と三菱が一緒に飲むことはなかったな」炭鉱事故が発生しても系列が違うと救助に向かうことはなかった。祭りも行事も違う。校内の器具の名前も違う。水道も独自に整備しているため味も違う。配管の規格も違っていた。「組織の三菱、和の北炭」「北炭はルーズで三菱は厳しい」「三菱は三菱商人気質で一円に対しても厳しく、「ケチ菱」と言われた。北炭はどんぶり勘定だった」
夕張の撤退の仕方も違っていた。北炭が倒産して借金を踏み倒して出ていったのに対して、三菱は計画的に撤退した。三菱は閉山にあたり、希望者全員の雇用先を確保しただけではなく、市に10億円を寄付していた。
空き家が雪の重みで崩壊する
「夕張がやり直せるとしたら、最後の炭鉱が閉山した1990年。炭鉱関係の交付金が激減するのに、それでも観光に投資を続けた。あのころ財政再建団体になっていたら、もう再建は終わっていたのでは…」
夕張は国や道の交付金を使って観光施設を建設していました。
石炭の歴史村(1980~2006年、自己破産。負債総額は約 74億8171万円で破産時、従業員は38人だった)
●【農林水産省】( )は全体事業費
①ユーパロの湯
5億1900万円(11億6000万円)
②めろん城
3億2000万円(6億4100万円)
③紅葉山工場
2億1200万円(4億2100万円)
●【経済産業省】
④パークゴルフ場
700万円(9800万円)
⑤夕張鹿鳴館
4000万円(6600万円)
⑥生活歴史館
2900万円(2億4700万円)
⑦シネマのバラード
2億3000万円(6億3800万円)
●【国土交通省】
⑧石炭の歴史村公園
8億3300万円(34億200万円)
⑨グリーン大劇場
6300万円(1億2600万円)
⑩キャンプ場
4500万円(9000万円)
⑪歴史村内トイレ
1100万円(1億3800万円)
⑫郷愁の丘ミュージアム公園
1億5100万円(4億2300万円)
⑬センターハウス
1億5800万円(3億3800万円)
⑭北の零年 希望の杜
500万円(3600万円)
●【北海道補助金】
①パークゴルフ場
4200万円(9800万円)
②炭鉱生活館
3500万円(2億400万円)
③めろん城公園
8800万円(2億5500万円)
④ロボット館
7000万円(8億3600万円)
⑤世界の動物館
1000万円(3億6900万円)
夕張市役所
2007年6月15日、夕張問題の集中審議が行われた政府の地方分権改革推進委員会に作家の猪瀬直樹委員がいた。1979年から2005年度にかけて、夕張市の財政破綻の要因となった観光事業に施設の整備費だけで147億3900万円が投じられ、このうち国の補助は21億8900万円だったことが報告された。
委員会では、国のチェックの甘さを問う指摘が相次ぎ、国側は「施設が作られたどうかはチェックするが、効果を検証する制度にはなっていなかった」と釈明した。猪瀬直樹委員は「補助金の出しっぱなしじゃないか」と痛烈に批判した。
2007年、地方分権改革推進委員会の猪瀬直樹委員(後の東京都知事、2012年12月都知事選当選)
夕張市が90年度、積極的な観光施策を評価され、自治相から「まちづくりのモデル」表彰を受けたことについても「国が煽り立てたのではないか」と指摘。総務省は「表彰後、収支計画が狂ったということ」と苦しい弁明をしていた。
助役から中田市長の肝いりで市長になっていた後藤夕張市長は、次期市長選には出馬しないことを宣言し、市民の批判を浴びていた。
後藤健二元夕張市長(2000年に夕張市助役に就任。2003年~2007年任期満了で市長選の出馬を断念、政界を引退した。財政再建団体に移行すること決定した市長)
夕張観光開発の破産
http://blog.livedoor.jp/zikohasansoudan/archives/50561792.html
次の夕張市長は民間出身の藤倉肇氏でした。故中田鉄治市長や後藤健二市長ら市職労出身の市長が続いた夕張で、民間出身者は48年ぶりでした。
夕張市「財政再建団体」になる過程 ②
古里の街が失くなるのは辛いものです。夕張が破綻し「財政再建団体」になる過程はどのようなものだったのか。前回の続きです。
http://mickymagicabc.hateblo.jp/entry/2021/03/19/095012
夕張の負債は、実質負債632億円のうち地方債残高などを除いた360億円でした。360億円の内訳は、一般・観光事業など4会計と第3セクターへの市の損失補てんです。それを20年で返すというのが市が提案した再建計画でした。しかし管轄の総務省に何度も突き返されます。
360億円を返済するためには、歳出を最大限削り、歳入は公共事業の値上げなどで増やすことが基本となります。監督する総務相がこだわったのが、歳出面では「全国最低レベル」でした。当時の総務大臣は今の菅総理大臣でした。菅総務相は記者会見で「住民に冷たいという批判もあるが、例えば市の職員数は人口規模に比べて極めて多かった」と指摘し、さらにあやゆる面で全国最低水準まで切り詰めを求める考えを改めて強調した。
もともと「国が補助金制度という名目で、自治体にお金を使えと言ってきたじゃないのか」 夕張市議会でも、政府や銀行を批判する自民党市議がいました。
~
徹底的な情報公開が行なわれなければ、到底市民の納得は得られません。もちろん、補助金目当てに過大な観光投資に暴走し、莫大な赤字を隠蔽しながら不適正な経理を重ねてきた、夕張市の行政責任は厳しく問われなければなりませんが、しかし国が「補助金制度」を利用して自治体に箱物投資・観光投資をあおり、誘導した国の産業政策と同時に国の政策に乗じて、自治体を借金漬けにし、金利で莫大な利益を得た大手銀行の果たした役割と責任についても問われなければなりません
~
国は、夕張の莫大な投資に対して中田市長に感謝状を贈っています。それは夕張市民が誰もが知っている事でした。全国の自治体からは夕張の莫大な投資はどのようなモノなのかと視察に来ていたほどです。夕張が観光開発に乗り出したのは、バブルが始まる頃でした。有名銀行は有り余るお金を夕張市に貸付けていました。中田市長はバブルに踊らされていたのです。
『仮面ライダーBLACK 恐怖!悪魔峠の怪人館』夕張市長・中田鉄治氏も特別出演
高橋はるみ知事は、財政再建計画のおおまかな方向性を時期を「8月いっぱい」を目安にすると記者会見【7月14日】で発表しました。後藤市長は「8月いっぱいまでまとまるかはわからない」 総務省からの催促で計画策定のスピードを少しでもあげたい道庁に対し、全く準備もないまま未経験の仕事に突入し右往左往する市。「全く何をどうすればいいのか方法がわからない。能力がないんです」
総務省から二人の役人が夕張に入り財政再建計画の骨子ができた。公共施設は、市内唯一の養護老人ホーム、図書館、美術館など多くを廃止する。11校の小中学校は各1校に統廃合する。プールや市営球場、公衆トイレ、共同浴場、市役所連絡所を廃止。市の補助事業も、高齢者敬老バス乗車証、ホームヘルパー派遣、子育て支援センター運営、小中学生教室、農業振興対策、中小企業育成対策、防犯灯設置、交通安全対策、その全ての維持管理など、片っ端から打ち切る内容だった。
夕張市民の負担増は、子供をもつ家庭が最も負担が多いことがわかりました。一番の原因は 保育料が一気に国の基準に値上げされたことで、負担増は年間16万5880円にのほりました。次に50代夫婦と子供二人の家庭で年間4万8480円。65歳以上の夫婦が年間2万5400円。65歳以上のお年寄りが年間4340円でした。
市民の負担はもとより、夕張市職員も痛みを共有しなければなりません。給料は全国市町村で最低水準の3割減、特別職給与6割減、特殊勤務手当全廃、ボーナス年間6割削減。41歳モデルで年収370万円。退職金は2010年までに1/4削減する。特別職には退職金はない。更に2009年までに職員の数を半分以下にするという。
夕張市はもとより道庁の職員も「もう血も出ない。これ以上の削減は厳しい」と嘆きがあがったほどでした。
市民からは、「自然豊かな夕張は、子供に良い環境。しかし、不便で税金も日本一高くなってしまっては、住む意味が無くなってしまう」
2006年12月 凍てつく寒さの中、菅義偉総務相が夕張に来訪した。「実態を自分の目でみて関係者と意見交換をしたい」と視察が決まった。視察するのは、養護老人ホーム、公営住宅、公衆浴場、市立総合病院、石炭博物館、めろん城、市役所など。懇談会には商工会議所会頭や市農協組合長、青年会議所理事長、市老人クラブ連合会代表、市長、議長など13人が出席し、夕張の厳しい実情への理解を求めた。
視察のあとの記者会見で、菅総務相は「再建に向け、市民の強い意気込みを感じた。交通の便が悪いなど夕張特有の事情も分かった。安部総理からも、高齢者や子供に配慮するよう言われている。夕張が頑張っている姿を見せれば、国が支援しても国民は理解をしてくれるはず。一定の行政サービスは国が補助する。高齢者や子供には配慮したい」
わずか 3時間半の夕張来訪でした。
菅総務相、高橋はるみ知事に夕張の現状を説明する後藤夕張市長。
総務省は、財政再建計画の骨子を一部修正をしました。最終的な財政再建計画では、5項目の修正がありました。
①廃止の予定だった敬老バスは 100円の値上げ【200円→300円】で存続。
②公衆トイレの一部存続。
③保育料値上げは段階的に。
④スイミングセンターは 夏のみ限定で存続。
⑤南部コミュニティセンターは町内会の運営で存続。結局、夕張の厳しい現状は何も変わりはありませんでした。
以来、政治家の夕張来訪は各党から先を争うように来るようになりました。来年(2007年)の4月に統一地方選を控え、民主党や野党は、夕張破綻を地方格差の象徴として選挙戦の争点にしようとしていました。民主党の鳩山由紀夫幹事長は、議員団10人で訪れ「計画骨子は総務省からの押し付けではないか」と後藤市長に迫っていた。 市民は大物政治家の来訪に冷ややかな目線で見ていました。
「財政再建計画の骨子ができた段階ではもう遅い」「選挙を控えたパフォーマンス」「マスコミで夕張の厳しい実情を知り国や道が批判されるようになったから、夕張を訪れただけだ」「いざとなると国や政治家は当てにできないと分かった」
2007年以降、夕張を脱出する市民が多く現れました。先ず、最初に動き出したのは、夕張市役所の職員でした。2009年まで段階的な人員削減で今の半数の150人を目指していた夕張市でしたが、2007年で早期退職を希望する職員は200人に及びました。それは夕張市役所の2/3の職員の数で市民は驚きました。早くやめた方が退職金が多く出る為、重税で生活が厳しくなる夕張からの脱出でした。
「借金の原因を作った行政の人たちは、夕張から逃げ出さないで私たちの生活を見続けて欲しい」この時の夕張市民の絶望は計り知れなかった。
北海道夕張市が破綻した理由 ①
夕張の話をします。
2006年7月、夕張は財政破綻しました。
79年に市長に当選した市役所職員労働組合委員長出身の故・中田鉄治元市長は
「炭鉱から観光へ」のキャッチフレーズを掲げテーマパーク「石炭の歴史村」の開業、ホテルやスキー場の改修、メロン酒や長いも焼酎などの製造など、矢継ぎ早に観光路線を推し進めていった。これらは全国的にも脚光を浴び地方活性化のモデルとして本やマスコミなどで取り上げられることも多かったが、観光も年々陰りを見せ巨額の債務が積み重なっていた。その原因を作った中田元市長は、2003年4月6期24年で退任し、その年の9月に亡くなる。
夕張の財政が厳しいのは、その10年前から…噂はどこからかか聞こえてきました。
「夕張市の借金は結構あるみたいだ」
しかし、市の決済は毎年黒字でした。
「なんだ、ただの噂じゃないか」
「また反市長の噂話か」
中田市長は 79年に当選し92年まで無投票当選でした。92年の選挙では 夕張の南側住人の会社社長と争い、僅か6%の差で当選しました。この市長選は、長年の中田ワンマン市政にノーと言えない空気に風穴を開けた選挙でした。この市長選の時はあからさまな嫌がらせなどがあったと聞いています。以来、夕張は市長選のたびに北側の住人と南側の住人が争っています。
【夕張市は南北に長い街です。それぞれの街との間には山や峠や川などで区切られ街の境を作っています。北側は昔からの炭鉱町の面影を残す地域。南側は夕張メロンの産地】
北側の住人は親中田市長派。南側の住人は夕張農協を筆頭に反中田市長派でした。【中田市長が市の助役だった頃、夕張メロンを開発中だった農協は、市に援助をお願いしたが、中田助役は断ったのがきっかけ】
当選した中田市長の市政は、観光施設を全て北側に建設する。南側には企業誘致の整地をし、新たなバイパス道路を作るということでした。
南側は炭鉱住宅の多い地域で、人口減少が90年代から続いていました。夕張市役所がある北側が夕張の中心地だったので【夕張炭鉱があった地】夕張の人口は北側に片寄っていました。とはいえ、夕張の基幹産業の炭鉱は既に無く、2000年代には北側住人の生業は市役所の仕事がメインとなっていました。
「中田市長が私たちの仕事を作ってくれる」 「中田市長は中央に顔が利く」「中田さんは国からお金を引っ張ってきてくれる」
中田市長が市長選に出るたびに、巷で聞こえてきました。
中田市長は「国は夕張を絶対に潰さない。夕張は日本を支えた町なんだ」と各地を回り市民を説得していました。
1981年10月16日 午後0時40分。消防署のサイレンが鳴り響き夕張の街は騒然となりました。夕張でただ一つ残った 北炭夕張新炭鉱(夕張新鉱)のガス爆発事故です。93人が犠牲になり夕張の炭鉱事故では戦後3番目の規模でした。夕張新鉱は、夕張の南側にありました。国内最高品質の原料炭が埋まり「東洋一の炭鉱」と言われていました。高純度の原料炭なので採掘には細心の注意が必要でした。
事故から7日後、坑内に残された59人の家族の同意を得て注水が始まった。すでに坑道の通気は事故当日に遮断されている。坑内に注水した日、街中にサイレンが鳴り響いた。
そして、翌1982年10月 北炭夕張新鉱は倒産します。
北海道新聞は市民に夕張が破綻した理由は…とインタビューしています。先ず、夕張市民は中田市長のワンマンをあげています。
①夕張中田市長の責任
「中田市長は借金できるのも実力と方言している」「観光のやり過ぎ、収入、支出を考えず借りるだけ借りた」「谷間に観覧車はないでしょう」
②市役所の責任「臨時職員で働いていたが、ボーナスも出るし残業もないから、臨時職員はずっとやめない。20年以上やっている人もいた。10年前は職員の1/3、臨時職員が100人はいた」
③第三セクターの責任「3セクで働く社員なのに、自分を職員と呼ぶ。役所におんぶに抱っこで破綻の原因を作った」
④市民の責任「炭鉱の町は、衣食住を会社にすがって生きる風土があった。炭鉱が無くなってすがりついたのは行政」「市民運動も起こりにくい土地だった」「閉山で、みんな弱気になって市長にすがりついた」「原因は 炭鉱時代の何でもタダみたいな空気。払わなくて済むものなら払わないという人が多かった」
⑤北炭の責任「北炭が倒産し 施設や住宅、福利厚生を市に丸投げしたから夕張に借金が残った」「北炭は ずらっとあった長屋の住宅を市に押しつけた。市は後始末で大変だった」
⑥国の責任「国は安い石炭を外国から買い入れ 炭鉱の町を潰していた」「国の指導力の無さ。 石炭産業が衰退する中、国は石油ショックでは石炭を見直してみるなど、政策が右往左往していた」
⑦市議会、市議たちの責任は重大だ。
「中田市長に何も言えない空気があった」
「行政が出す数字が、全く違っていた」
中田市長の恩給に預かっていた市民は…
「いつまでも過去を振り返っても仕方ない。大切なのはこれからの夕張を考えること」「マスコミは暗いニュースを流し続けている。夕張のイメージを悪くしている」
と 続きます。
夕張の市民はどれだけの借金があるのか 全くわかりませんでした。夕張が発表する毎年の決済では黒字なので「 噂 」程度と思う市民もいました。 それが マスコミから突然の「夕張市 一時借入金300億円、負債総額500億円、道、指導強化へ」「地方財政制度 見直し必至」とニュースが流れ、その数ヶ月後、夕張市は財政再建団体に移行することが、中田市長から代替えした後藤夕張市長から発表されました。
なぜ 黒字だった夕張市が 突然 財政破綻したのか? 夕張は、不適切な会計処理をしていました。普通会計から観光事業会計に資金を流し、それを第三セクターの赤字補てんにつかう。普通会計が財源を調達するのは一時借入金だ。一時借入金は一時的に資金不足が生じた場合に借りるもので、年度内に返済しなければならない【自治用語辞典】一時借入金を財源するのは、そもそもダメですが、年度末の会計締め切りを出納整理期間を利用して、前年度と今年度のどちらにも該当する「抜け穴」として使っていました。
夕張市の債務は2005年度の決算で、合計632億4000万円もの額になっていました。
さらに北海道庁にも隠したい事実がありました。空知地方の旧産炭地域5市1町(夕張、芦別、赤平、三笠、歌志内、上砂川)が、地方自治法で定められた道知事の許可を得ない「ヤミ起債」を発行し、閉山後の地域振興を支援する「空知産炭地域総合発展基金」が引き受けていました。引き受け額は、2006年3月で71億4500万円にのぼっていました。
北海道新聞は、当時、財政破綻した夕張の再建終了予定の「18年後」について夕張市民に聞いています。
「全くつかめない。想像できない」
「再び栄えていると思う。もう落ちない」
「何もなくなって、山だけ残る」
「夕張は地図上でしか存在しなくなる」
「もう年だから町がどうなるか興味ない」
「今でさえ大変だから、前途多難」
「考えられない。一年後どうなるかも」
「人口は今の半分だね」
「人口は5000人位か。益々暮らし辛くなる」
「消滅することはないと思うが」
「再建計画が行き詰まっているんでしょう」
「大きく変わることはないと思うが」
「夕張はなくなっているかもしれない」
「生活の場として残れるか危うい」
「今 生きるのに懸命だから、わからない」
「借金は返せていない」
「役所任せの市民はいなくなると思う」
「町は変わらない」
「人口減少で借金返済はできない」
「中心部に集約された町になるかな」
「18年間返済計画は無理」
「想像もつかない」
「18年間 持つかな」
「すごく 人が減っている」
「今より酷くなっている」
「借金はなくならない。18年では無理」
「200軒あるメロン農家も減るだろう」
「良くなるとは想像できない」
「新しい観光地になっているんじゃないか」
「みんな死んでいるよ(高齢者が多く)」
「負債が残って返済期間が延長になる」
「だれもいないんじゃないか」
「人口が5000人いればいいほう」
訂正…下水道料金(20m3を使用した場合の月額)夕張市:5105円
水道料金(口径20mmで20m3の月額)夕張市:6978円
住民票交付手数料 500円
夕張の人口は年々 300人以上減少しています。現在の夕張の人口は、2021年(令和三年)2月で、7386名です。
夕張借金時計
https://www.city.yubari.lg.jp/syakintokei/index.html
続く
異民族との初めての出会い(アイヌ民族と和人の場合)
アイヌと和人との初めての出会いが記録に残っています。その証言をそのまま伝えます。
和人 安達由太郎さんの証言。
安住の地を求めで翌二十五年家族を連れて山形県を引揚げ北海道に向った。その中に私がおったんです。五才でしたから詳しいことは解らないが、苦労して来ました。今でも想い出すことは、青森より津軽海峡を渡るのに帆船(十トン未満)に乗り、出帆する時は鏡のようななぎでも海峡の灘は波高く、船が木の葉のように揺れ、船酔で死人のようになっている者、念仏を唱えている者、まったく生きた心地がしなかったものです。
函館より国縫まで二五里の道のりを徒歩で五日間かかつてたどりつき(途中野宿したこともある)、さらに五里の道のりを歩いてようやくこの地に着きました。道路の両側は自然木がうっ蒼と茂り、周り一面の熊笹で昼でもうす暗く、淋しいところだった。親は休む暇もなく拝み小屋づくり、砂金採取の道具づくりと、あすからの生活に希望が湧き精を出したものです
当時の悪らし?方は、拝み小屋を熊笹、ヨモギで屋根や周りをつくり、中はフスマがわりにヨシで編んでたれさせて部屋づくりをし、地べた熊笹を厚くひいて、その上に空米俵をひき、雑古寝をしたものです
蚊・アブ・ブユがひどく、特に蚊に悩まされました。草を燃やし、小屋から追いらいました。熊の出没も多く、小屋の周りに石油カンを鳴らすように仕掛を置いたり、道路を歩く時はラッパを鳴らして歩きました。
日用品は、殆んど国縫まで歩いて買いました。主に米(内地米)、衣類、石油、調味料などでした。荷を背負って、国縫があるといっても実際の用にただず、うっそうと茂る大木、重なり合った梢、その中を縫って横行する熊、キツネ、てん、むじな等、ほんのわずかの人が通って行くのみででした。
野菜、穀類は私たちの手でというわけで、小屋の周りに無願開墾し、野菜(ナッパ)、ヒエ、イナキビ、トウモロコシ、ジャガイモ等の作物を栽培しましたが、収穫はよくなかった。なにせ無肥料であったから。利別川は、鮭、鱒が豊富で魚には事欠かなかったものです。
嗜好品であるタバコは山形県より送らせたホロキという木を栽培し、これを細かく切ってキセルにつめて吸いました。マッチは貴重品なので周りに生えているガマの穂をかわかし、焼いて灰にし、メノウ石を火打ち石にして灰に火を移して使ったもんです。あの頃は無からそれを生みだすしかないんで、本当に苦労の毎日でした。
人は必らずといってよいくらい心の支えを求めるもので入地当時、お札を大木に打ちつけて無事安泰を祈りました。そして一六戸になった時、みんなで相談して社を建立した。それが今の山神神社です。
安達さんの父は山形県出身の砂金採取業者で、明治19(1886)年に初めて北海道に渡り、利別川流域の砂金採取事業の監督をしていました。さて、渡島半島の山奥で和人とアイヌはどのように出会ったのでしょうか。
アイヌは入地当時10人位附近に生存しておったようでした。アイヌのことをオヤジ(熊という意味)といっておったもんです。私どもに始め警戒しておったようだが、お互いに乱暴をする者がなかったようだった。
アイヌはもっぱらマルポという道具を自作し鮭、鱒漁をしておったもんです。マルポを魚めがけて投げ命中させるあたりは達人でした。
クチャリキという酋長がおり、この酋長の支配下にあったようでした。私達移住民との接触の動機は解らないが、お互い乱暴をすることがなかったので、アイヌの方から近づいて来たようでした。
(クチャリキは)酒が大変好きで、夕方小屋の近くに来ると地べたに頭をつけ、平身低頭の挨拶をし、よく魚をもってきてくれました。(私たちも)酒、タバコをあげたものです。酋長が酒を呑む時ははしで顔ひげを上にあげ、酋長らしい見事な呑みぷりでした。
和人入植者と先住アイヌはお互い平和に出会い、すぐに助け合う互助関係を築きました。
これが北海道の各地でありました。更に、紹介するのは、アイヌが和人をおもてなしをする場面です。
和人 南川松栄さんの証言。
南川松栄さんは福井県生まれで、明治29(1896) 3歳で父に連れられて渡道しました。これは、今金町豊田(アイヌにはモウセウシと呼ばれていた)コタンの開祖であるアイヌの笹森来助さんの話です。
来助の熊狩りは、主にアマッポを用い(ブス矢へ矢の先にアイヌ産の毒をつけた矢)で熊を射ていた。彼は、熊を射ると部落中の人たちに知らせ、自分の自慢をするためにその熊を披露した。肉は十センチ四方程にプッ切りにし、それを大きな鉄なべで塩煮にし食べていた。その後だんだんと肉の切り方も小さくなり、みそ煮をするようになった。
彼は肉をえさにし、焼酎を飲み集まった人々に肉を御馳走し、得意顔で熊射の自慢話に花を咲かせ、酔うとむしろの上にごろ寝、極めてのんびりとした毎日を送っていた。
モウセウシの地に炉のたき火を燃やした来助の丸木小屋のあとは、その後、部落郷土史を研究していた豊田青年団が発見し(昭和三十九年)白樺の標札を立て、豊田発祥の地として記念している。
穫った熊を鍋にして自慢げに和人入植者に振る舞い、酔っては何一つ警戒感無く幸せに眠る来助─ 和人とアイヌはお互いに人として接していたのが分かる。 どこぞの民族とは違い、お互いに決して争いをせずに出合っていました。むしろ友好関係を築いていたのです。
これが北海道の真実です。
今金町開拓回想録編集委員会『今金町開拓回想録』より
https://www.hokkaidokaitaku.club/kyousei/senkusya/2020/teshiozakki.html