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アイヌの主な強制移住(1870~90年代)

榎森進『アイヌ民族の歴史』

アイヌ勉強会で購入した一冊。 こちらを参考にします。アイヌの主な強制移住についての一部を抜粋します。


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アイヌの人口

1804(文化元年) 21,697名【戸数 不明】

1822(文政5)      22,176名【戸数 4824】

1854(安政元年)16,136名【戸数 3297】

1873(明治6)      16,270名【戸数 不明】

1883(明治16)    不明        【戸数 3768】

 

1872(明治5)「北海道土地売貸規則」と「地所規則」が公布された。両規則は「深山幽谷、人跡隔絶ノ地」を除いて山林、川沢の別なく、その所有者を明らかにして、一人10万坪に限り売り下げるというものだったが、「私有」の対象は、和人であり、アイヌは対象外とされた。

 

1872~1885(明治5~18)まで、北海道土地売貸規則によって和人に売り下げられた土地(一人に付き10万坪に限り)は、計1,222万坪(内 鉱工業用地 886万坪)が和人の手に渡った。もっとも、これらの地は、主に札幌を中心とする石狩と渡島、後志、胆振などの道南地方に限られ、他の地域では、ごく僅かに過ぎなかったから、これによって全道のアイヌ民族が一斉に土地を取り上げられたという訳ではなかった。

 

1877(明治10)「北海道地券発行条例」が制定された。地租改正に相当するもので、アイヌ民族居留地を「牧場と同様、官有地第三種」に編入した。これは アイヌ民族の保護という意味もあった。実際これによって土地を確保できたアイヌは、1881(明治14)で、石狩、天塩、北見、後志、胆振、十勝の724戸だった。一戸平均310坪の土地だった。

 

アイヌの主だった強制移住 1870~90代』(姉去村の強制移住は1916年の大正5年ですがこちらに加えています)

 

●1872~73(明治5~6) 

余市、市街地のアイヌを市街地外へ

 

●1875~76(明治8~明治9)日露国境確定の為。樺太→江別(対雁)樺太から宗谷へ翌年対雁へ  【92戸、841名】江別(対雁)でコレラ天然痘が流行し 約300名の死亡者を出した。1905年日露戦争講和条約により南樺太が日本領になり 多くのアイヌ樺太に帰った。

 

●1880~81(明治13~14)小樽、市街地のアイヌ高島町へ【21戸、67名】

 

●1883(明治16)アイヌ救済の為。足寄郡、郡内4ヵ村→足寄村 【18戸】

 

●1884(明治17年)日露国境確定の為。北千島→色丹島【19戸、97名】急激な自然環境の相違から移住直後から死亡者が相次ぎ1889(明治22)には66名に減少。政府は様々な対策を講じたが、1939年第二次世界大戦直前には僅か数名に数えるに過ぎなくなっていた。

 

1885(明治18)以降、移住和人の増加、市街地の発展、移住和人用の植民地区画の設定等により、道内でもアイヌ民族強制移住が相次いで行われた。

 

●1885(明治18)アイヌ救済の為。釧路→セツリ川上流【27戸】政府はセツリ川を鮭の天然孵化場にするため鮭の遡上時期に鮭の捕獲を禁止した。アイヌは移住先を離れ釧路近郊に再移住する者があった。

 

●1885年(明治18)アイヌ救済の為。河東・上川両郡(十勝)→両郡のアイヌを音更・芽室太・ケネの三ヶ所へ【53戸】

 

1886年(明治19)門別川上流→沙流郡こナツミ(沙流川西岸)【12戸】

 

●1886(明治19)沙流郡ピリカ・シウンコツ・サラバ・沙流川西岸のアイヌ沙流川東岸へ【計 89戸】

 

●1886(明治19)沙流郡カバリ村賀張川畔→厚別村字カバリ【31戸】

 

●1886(明治19)沙流郡ナヌニ村→厚別村字アカム 【数戸】

 

●1886(明治19)網走→市街地のアイヌを市街東方へ【30戸】

 

●1889~90(明治22~23)網走郡美幌外6ヵ村→各村のアイヌを美幌村アシリベツクシへ【16戸、93名】

 

●1890(明治23)樺戸郡トック原野→各地のアイヌをウスシベツへ【11戸】奈良県吉野川一帯が豪雨の為に大被害を受け、十津川郷6ヵ村、和人600名の住人が北海道に移住する事となり、その入植地がトック原野だった。その後、石狩川の氾濫や十津川移民の開墾の進展等あり、1910年(明治43)十津川村(移民が開墾した地)奥地のワッカウエンベツに集団移転した。

 

●1894(明治27)上川盆地→各地のアイヌを近文(旭川)へ【36戸】

 

●1894(明治27)天塩川沿岸→名寄盆地のアイヌを内淵(名寄)ほかへ【29戸、102名】

 

●1894(明治27)保護地設定の為。十勝平野→平野内のアイヌを数ヶ所の保護地へ


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●1895(明治28)新冠御料牧場の為、新冠郡滑若(ナメワッカ)村→同郡姉去・万揃2ヵ村【十数戸】

1872(明治5)開拓士は日高の地を牧場の適地とし同郡を中心に2,122坪(現新冠町を中心にして西は沙流郡門別町から日高郡新ひだか町静内にわたる地域)を牧場用地として選定した。アイヌは両地域で合計11ヵ村に117戸・535名が居住していた。新冠牧場を設置するや集落は共にまるごと牧場内に取り込まれた。新冠中心部は肥沃の土地で、アイヌは農場内で農業に従事したり牧夫として生活をしていた。宮内省御料局→宮内省主馬寮管轄となり新冠御料牧場に改名。御料牧場内に取り込まれた滑若村のアイヌは 1901(明治34)新冠御料牧場を視察にきた皇族の閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)に、先祖が開墾したアイヌの地をアイヌ民族に返還して欲しいと直訴したのである。その要求は受け入れられず、他地域に強制移住させられた。

●1916(大正5)新冠御料牧場宮内大臣管轄になり、宮内省主馬寮頭の藤波言忠が同牧場を視察した際、姉去村を御料牧場直営の飼料用地と決定した。姉去村のアイヌ全員【70戸、300名】を沙流郡貫気別村上ヌキベツ(現沙流郡平取町字旭)の和人移住給与地だった地に強制移住させた。当時は雑木林に覆われた山中で、耕作可能な地は僅かであった。その為、実際入植した20戸近くのアイヌのうち、耕作地の開墾が成功したのは15戸前後だった。

 

 

●1896(明治29)屯田兵屋建築の為、門別郡湧別村ヌブボコマナイ→同地のアイヌ湧別川西岸へ

 

●1897~1902(明治30~35)弟子屈が御料農地となった為。弟子屈→屈斜路(弟子屈コタンのアイヌを屈斜路コタンに移す


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~榎森進『アイヌ民族の歴史』より~

 

 

地域やそれぞれのアイヌコタンによって事情が違うようだ。北千島や樺太アイヌは、日露国境確定と日露戦争講和条約の影響に起因する。釧路のセツリ上流に強制移住アイヌは、セツリ川を鮭の天然孵化場にするため遡上時期の鮭漁を禁止された。新冠郡滑若(ナメワッカ)村のアイヌ新冠御料牧場用地の土地搾取で、窮状を直訴をした罰として強制移住。更に新冠御料牧場の管轄が変わる度に強制移住させられている。ただ、アイヌの人口で見比べると道内全域のアイヌ強制移住した訳ではないようだ。

【『北海道地券発行条例 第十六条』でアイヌが取得した土地は724戸。 道内の主な強制移住の数の合計は700戸でした。注>見えない戸数は数に入れていません】

 

注>アイヌの一戸あたり平均310坪の目安。こちらは320坪。

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注>和人の10万坪に限り売り下げるという目安。こちらは13万坪。


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