もふもふ大好き 怪盗仏陀

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私の実家は、映画館でした。


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この映画館は私の実家です。

1960年5月の写真です。以前、夕張の歴史資料を整理していたら 当時の写真が掲載されていた本を発見しました。今は更地になっていますが、当時は地域でも有数の大きな映画館でした。

 

炭鉱では 炭鉱夫が一番方、二番方、三番方と 24時間交代で構内に入り石炭を掘ります。その為炭鉱夫たちは、それぞれ街で飲んだり遊んだりする自由な時間が番方によって変わります。それに合わせ、街の飲み屋は休み無し、映画館も、ほぼ24時間体制で映画を公開していたと聞いています。当時は 映画が唯一の娯楽でした。

 

一階には大きなスクリーンがあり、演劇を観賞できるようスクリーンの前に大きな舞台があります。映画館と共用し、二階は当時流行りのダンスホールがありました。床は大理石。私が産まれる前にダンスホールは閉めてしまい、二階は自宅に改装していました。

 

ダンスホールだっただけあり めっちゃ広い空間で、夜は怖くて自宅にも関わらず住居スペースの部屋の外の廊下を歩くことすら怖くて出来ませんでした。

 

その後、父は広い空間に畳を引き 建築関係の労働者の宿舎にしてました。

私たち家族が住む自宅のスペースの部屋を出たら、全く知らないおじさんたちが寝起きしている何とも奇妙な環境です。それもおじさんたちは集団です。私は幼かったので おじさんたちに可愛がれたようです。 一番 恐怖を感じていたのは母親でしょうね。自宅スペースから出たら廊下を走って階段を降りて行きましたからね。やはりじろじろ見られるのが怖かったのでしょう。

 

写真の『日本誕生』の『生』の脇の窓が私の部屋です。隣に木造の家が写っていますが、この家には入れ墨をしたヤクザの家族が住んでいました。私が小さい頃、そのヤクザが二階の実家に怒鳴りこんでひと悶着がありました。その一部始終は今でも鮮明に覚えています。

 


この実家の映画館は『日本恐怖100話』の題材になっていた事を東京に来て知りました。私が18歳で東京に出て、杉並に住んでいた時、ある古本屋で見つけた『日本恐怖100話』という本に、まさに実家の映画館の話が載っていました。

 

どうも、旅芸人の男女間の殺人事件が題材で、その女性が惨殺され 女の怨念が残る曰く付きの映画館と紹介されていました。私の産まれる前の話で、その話自体は知りませんでしたが、まぁ、あっても不思議ではありません。 確かに当時の映画館は、どさ回りの劇団が来て演劇公演をしていたりしていました。よく真夜中、天井を何かが走る音が聞こえてました。 …ネズミです。

 

私の実家の映画館には、劇団は勿論。ラジオで流れる有名な歌手や、更にオーストリアのウィーン合唱団まで来ていたようです。恐らく、演劇の劇団員や旅芸人は日常的に出入りしていたのでしょう。

 

一階の舞台とスクリーンは私の遊び場でした。至るところにフィルムが転がっていて、透かすと映画の一場面が見えました。映画の『ニューシネマパラダイス』のように 私もフィルムの切れ端をお菓子の詰め物に集め楽しんでました。

 

私も二度しか行ったことのない場所があります。 一階の男子トイレです。ものすごく怖い場所でした。ただのトイレですが、小学生の頃に一度入って、そのただらならぬ気配で恐怖を感じ、それ以来入ってませんでした。高校になり友人と度胸試しで三人で入ったのですが、三人で行っても怖かった記憶があります。中々 スリリングな実家ですよね。

 

中学二年のとき 映画 『戦場のメリークリスマス』で有名な大島渚監督が父に会いに来ました。何かの雑誌の企画で父と対談して、最後は家族で一緒に写真を撮りました。父と大島渚監督とのツーショットの写真は 暫くは実家の一番目立つ場所に飾っていました。

 

その後、実家の映画館は更地にすることになります。実家を解体した時に、錆びた古いドスが三振り発見されたと聞いています。家族も知らない刃物です。誰のものかは今になっては知るよしもありません。