もふもふ大好き 怪盗仏陀

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『樺太(カラフト)生まれの父 』 父が生前 NHKで特集されました。

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この船は『白竜丸』と言います。ネットで調べると……出てきました。
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総トン数:3.186トン
速力:15.8ノット
登録寸法:98.0×14.3メートル
建造年:昭和18年
船の種類:砕氷貨客船
主な引揚地:塘沽・ナホトカ・上海
就航回数:11回
引揚乗船者総数:15.179名
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父は樺太で生まれました。樺太の北部 当時の日本の最北端 西柵丹村で生まれたそうです。 父が幼い頃、おしっこをしている時点で、下から逆氷柱になっていく程の極寒の地だったようです。生家は 大きな農家でした。

父の生まれた地は重要な軍事施設もなく、戦争らしいことはなかったと聞いています。一度 戦闘機が現れ、一斉射撃をされたのが唯一の戦争体験でした。


そして……日本が敗戦することがほぼ確実の時期に 日ソ中立条約を一方的に破棄し突然ソビエトは 南に侵攻を開始し支那満州、朝鮮、樺太に襲いかかりました。ソビエトポツダム宣言による降伏文書に日本が調印した1945年9月2日の翌日まで進攻しました。


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8月25日、昭和天皇は海外で武装解除した日本陸海軍の将兵に対して諭した。

「兵を解くにあたり一糸乱れざる統制の下、整斉迅速なる復員を実施し、以て皇軍有終の美を済すは、朕の深く庶幾する所なり」

この勅諭にもとづいて、満州・朝鮮に約100万人、中国に約110万人、南方諸地域に約160万人の合計約370万人もの陸海軍将兵は、粛々と日本国土に還ってきた。これを「復員」といいます。

 中国や満州その他の外地には多くの居留民がいました。その数約300万人。彼らは祖国に見捨てられました。敵に追われ自力で帰国するしか方法がありません。これら多数の老若男女が、「引き揚げ」の名のもとに、まったく保護なしに母国へ帰ってきました。

 国家に見捨てられた引揚者の、帰国するまでの労苦は筆舌尽くし難く、世界史上にもこれほどに苦難の祖国帰還の例はありません。

とくに幼い引揚者の疲れ切った姿には、戦争の残酷さ、残忍さというものを強く突きつけられ、出迎えた人々の涙を誘ったという。この引き上げで たくさんの同胞の犠牲がありました。


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民間引揚者に対する国家の保護はありません。それらの役目を負う軍人や官吏達は天皇の命令のもと、一番最初に逃げて帰国してしまっていたからです。

父の家族はソビエト軍の捕虜となり 南樺太に収容され そこで3年間 捕虜生活をしていました。その3年間は過酷そのものだったそうです。

何人も栄養失調で亡り、樺太の固い氷の土をスコップでカチ割り 埋葬したそうです。しかし、当時のソビエトの軍人も パンツすら供給されていないギリギリの闘いを挑んだようで ソビエト軍人も日本人捕虜も餓えていました。

ソビエト軍人の鬼畜の行為は南進した当初の事で、後に来たソビエト民間人は日本人捕虜と信頼関係を築き 協力しあって生活していたようです。

……そして、昭和20年 日本人捕虜の引き揚げ事業が開始されました。 日本人捕虜は それぞれ班に分け 順次 日本に引き揚げました。 父の家族は昭和23年の9月に引き揚げてきました。 その時の船が この『白竜丸』でした。

『ほんと熱い日だった』と父のお兄さんは言います。 船のなかで供給された『おにぎり』と『乾パン』は 驚くほど美味しく 忘れられない味だったそうです。

朝鮮人の方々もたくさんいたようですが、一部の朝鮮人は釈放されたようです。しかし、その後をみると捕虜になって引き上げ名簿に入っていた方が良かったかもしれません。その一部の朝鮮人は祖国に帰ることは出来なかったといいます。


父は二葉百合子の『 岸壁の母』をいつも聞いていました。母が好きでよく唄っていたからです。でも調べてみると 戦後の引き揚げの情景を唄っていました。


舞鶴港
岸壁の母》平沖に停泊した引揚船からランチに乗り換え桟橋へ、人々の重味でしなう木造の桟橋を渡るとすぐ目の前に「歓迎」のアーチ、それを渡ると夢にまで見た祖国の土だ、ふるえる足を踏みしめながら感激の第一歩をしるす。桟橋に立ち入れない出迎えの家族や関係者達は、アーチの周りに府県名や肉親の名前を大書したノポリを立て、帰って来る人の姿を求めて、いまか、いまかと待ちわびる。やがて、そこ、かしこから悲鳴にも似た嗚咽と、爆発するような喜びの声の交錯…。(朝日新聞より)。 舞鶴港が舞台です

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これが引揚船が着くたびに何時も見られた出迎えの光景です。こうして船の着く日は全国各地からまだ帰らぬ夫やわが子を待ちわびていた留守家族が出迎えに、あるいはその消息を求めて、どっと繰り込んできました。

こうした出迎えの人々のなかに、いつのころからか、毎回、同じ顔ぶれの人が桟橋の脇にたたずんでいる姿が見受けられるようになり、これが、いつしか報道陣の目に止まり「岸壁の母」あるいは「岸壁の妻」として取り上げられ、たちまち有名になりました。もっとも、こうした人達は、当時、マスコミに取り上げられた特定の人だけでなく、ほかにも、たくさんの人達もそうです。

私たちも ひとつ間違うと先人のこの辛苦の経験を忘れ 戦争に向かう恐れのあるフラフラした時代に生きています。私はその先人の体験を教訓としてしっかり自分で考え生きて行きたいと思っています。

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