「津波てんでんこ」「命てんでんこ」
東日本大震災。皆さん あの時は どちらにいましたか?
私は 東京大学の先生に会うために駒場東大の校舎にいました。大きな地震で東京も相当揺れました。新しい校舎の責任者が来て 「こちらの建物は東大の建築の先生が設計された建物です。建物は安全です。安心して下さい」と私達に伝えていました。駒場東大の古い校舎のガラス窓は 割れて地面に落ちていました。
早々に 帰る事になり 電車に乗ろうとしても 既に電車はストップ。 私は自宅まで約3時間掛けて 歩く事になりなりました。
その後、毎日 流れるテレビが 余りにも悲惨で 現実の事とは どうしても思えませんでした。そして、福島の原発事故。当時は、もう東日本は終わった。日本が終わったと友人が言っていた記憶があります。
私は、震災の3ヶ月後に釜石に入りました。 それから約一年間、東京と東日本太平洋沿岸部を何度も行き来しました。 一度行くと確実に3日、4日 滞在します。しかし、滞在するホテルもなく、花巻か盛岡か仙台に滞在し毎朝 夜が明ける前に出発し、現地に到着しました。
それから、ほとんど毎週行くようになりました。気仙沼、陸前高田、宮古と現地に入りました。どこも悲惨な状況。3ヶ月前の大震災なので、主要な道路は確保されていました。物資も続々と運ばれていました。しかし、まだまだ人が入れない地域があり、自衛隊の方々が人命捜索と道路確保の作業をしていました。
色んな方々に当時の話を聞きました。特に印象に残っているのは、あの宮城県石巻市立大川小学校でした。校庭にいた児童78名中74名と、教職員13名中、校内にいた11名のうち10名が死亡し 更に スクールバスの運転手と 痛ましい犠牲者があった小学校です。
私は 何度も大川小学校に行きました。大川小学校に通う子ども達が住んでいた地域の街は さほど被災していなく 小学校だけ津波が川を遡上し壊滅的な被害にあった印象でした。 それだけに その地域の親御さんの嘆きは計り知れないほど 悔しい思いをされていました。
私も話を聞いていて涙が止まらなくなりました。どの先生も即座に逃げろと言えなかった。もう危ないと思って校庭を出て裏山の避難場所に向かう途中で、ほとんどの子が津波に飲み込まれ亡くなった。助かった子は自らの判断で、小学校裏の急な斜面を登って助かったと聞いています。小学校から山に向かう道の脇に、広い田んぼがあったらしく そこに 子ども達の亡骸が あちこちにあったそうです。
校内の体育館には、たくさんの亡骸が… もう あの時は 心が凍りついていたのか あまり 実感もなく 聞いていましたが 数日後に 改めて想像して初めて震えました。
私が行くどの街も、とても臭かったです。特に、気仙沼は魚の腐った匂いが充満して、普通に息も出来ないくらいでした。 震災3ヶ月後はボランティアが続々と入って来た時期で プレハブの仮設住宅も 着々と出来上がっていました。早い地域では、既に入居された被災者もいました。
どこの川も 車の残骸があちこちにありました。恐らく 運転手もろとも犠牲になったのでしょう。
初めて被災地に宿泊したのは、世界一の防潮堤があった田老町でした。どんな津波が来ても大丈夫というくらい街を区分けして堤防堤が張り巡らされた街でした。しかし、その田老町自慢の防潮堤の一部がそっくり根元から壊れて、田老町も壊滅的な被害を受けました。
私達は山の麓に僅かに残った集落で一晩を過ごしました。生き残ったお婆さんは「昔 大きな津波が来て この田老町も 全て流された。そして、海が見えなくなるくらい高い防潮堤を作ったんだけど 私らは 怖くて 高台に家を建てた。そして 助かった」
「津波てんでんこ」「命てんでんこ」という言葉があります。津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」「自分の命は自分で守れ」という意味です。
津波が来たら 自分の命は 自分で守れ、人のことは構わずに、てんでんばらばらに素早く逃げろ。
自分自身は助かり、他人を助けられなかったとしても、それを非難しない。と…。お婆さんから、私はその言葉を教わりました。
その夜、満天の星が 私を包み込むように光輝いていました。あんな綺麗な星空を見たのは生まれて初めてでした。 それは眼下に広がっていたであろう街の灯りが一切無かったからです。
「津波てんでんこ」「命てんでんこ」…私は、 何度も何度も口ずさみながら怖いくらい綺麗な星空に溢れ出る涙を堪えながら見ていました。
「津波てんでんこ」「命てんでんこ」
「津波てんでんこ」「命てんでんこ」
YMO と サディスティック・ミカ・バンド
YMO イエロー・マジック・オーケストラ…
1978年に日本でレコード製作後、ライブをしたようだが直ぐにアメリカで再デビュー、海外から日本へ逆輸入された形でヒットし大人気となった。テクノ音楽のパイオニア的存在のグループです。
メンバーは、はっぴいえんどの 細野晴臣。サディスティック・ミカ・バンドの高橋幸宏。スタジオミュージシャンとして大滝詠一や山下達郎のアルバムに参加していた坂本龍一の三人。1979年8月の 米・LA ライブで サディスティクの矢野顕子さんも出演しています。
私は海外のラジオでYMOを知りました。確か、Radio Australia でした。最初は海外のグループと思っていましたが、その後同じ曲を日本のラジオで聞いて日本のグループだった事を知りました。
舞台のど真ん中に鎮座している 配線だらけの機械は 通称「タンス」と云われた シンセサイザー のモーグ。当時の値段で800万円。最新のシンセサイザーです。扱っているのは 松武秀樹さん。YMO の独特な音色は全て 彼のプログラミングです。
1978年、日本は映画 「サタデーナイトフィーバー 1977年制作」の大ヒットもあり ディスコブームでした。 そのディスコ曲として YMOのライディーンが流行りました。
以前、パフューム好きの若者が「テクノが好きなので…」と言って来たので「あぁ YMOね」と返すと「何ですか? パフュームですよ」と切り返してきたので、YMOのウンチクをたっぷりと聞かせてやりました。
https://youtu.be/1WTy2yqKI4w
奇抜なジャケットの「増殖」… 当時、深夜ラジオ番組で流行ったスネークマンショーのコント 「警察だ!」です。
スネークマンショー とは wikiでは…1976年末頃、伊武雅刀はラジオで知り合った小林克也からラジオ番組への出演を持ちかけられる。これがラジオ大阪の桑原茂一プロデュースの番組「スネークマンショー」でした。
この中での小林との掛け合いによる過激で当時のタブーギリギリの内容のコントがリスナーや放送業界内でも評判となりました。この番組は後にTBSラジオほかJRN系列で全国ネットとなり、さらにYMOによってコントがレコードに収録されるに及んで音楽業界にまで一気に知名度が上がったとの事です。
若者に大人気のラジオ番組でした。
他には、落語家が中国で落語を披露するコント「林家万平」が収録されています。
先ずは ライディーンという名前ですが、当時流行っていた アニメ「勇者 ライディーン」と 細野晴臣さんが考えていた曲のイメージ 「雷雷」を合わせて「ライディーン」としました。
ライディーンは 和風ディスコ音楽として作った曲です。高橋幸宏さんは以前から 和風のディスコミュージックの構想を持っていたようです。
あの時代、映画「スターウォーズ 1977年制作」も公開されて大ヒットしていました。巷には電子音があちこちで聞こえていました。
曲中に流れている場面は 丁度 流行っていた「スターウォーズ」のシーンを模したと言っています。
この曲を作るに当たって、ある映画にインスピレーションを受けて作曲したそうです。
その映画は、黒澤明監督の「七人の侍」でした。あの勇ましい挿入曲をテクノ調でディスコミュージック風に作曲したのが この「ライディーン」でした。
「七人の侍」から貰った時代劇のイメージに欠かせないのは馬です。なので、ライディーンの曲のリズムを馬の駆けるリズムにしています。更に、曲中には馬の駆ける音も入っています。冒頭のリズムは 馬が駆ける音をシンセで模しています。
YMO と云えば 演奏中にベッドホンをしてカッコいい姿をしていますが、このベッドホンは、演奏でもとても大切なモノで、シンセサイザーのモーグから発生するクリック音を聞きながら、高橋さんがドラムを叩き二人も同調して演奏していました。
想像して下さい。シンセサイザー モーグはコンピューターです。それを生演奏の為に ライブステージに上げて演奏しています。
コンピューターですから 当然 熱に弱く、うしろは扇風機の山が出来るくらいになっていました。当時は マイクロコンピューター、PCでは当然ないからね。制御していたのはローランドのMC8とのことです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89_MC-8
演奏中にシンセサイザー「モーグ」を冷やさないとコンピューターが暴走し停止してしまうというメチャクチャ危険なライブをしていた事になります。
1980年12月27日 武道館ライブ
サディスティクミカバンド…
♪”タイムマシンにお願い ”
YMO を出したら サディスティクミカバンドを紹介しないといけません。 最近、木村カエラさんをボーカルに迎えて 再再再再再結成したので、この曲は平成生まれの方々も知っていると思いますが、この方が初期ボーカルの 加藤ミカさんです。
結成は、1972年。メンバーが、当時のトップミュージシャンを揃えての演奏なので彼らの曲を聞いていると、その時代の最先端を走る音楽に出会えると音楽に詳しい友人が言っていました。
1980年代後半に、二代目ボーカルの「桐島かれん」にバトンタッチしています。
桐島かれんさんは、とても可愛いモデルさんで資生堂などCM界で人気モデルさんでした。まさか ミカバンドに入るなんて 当時は驚きでした。 私の巷では、初代のミカの迫力と 二代目のかれんの可愛さを比較し どちらが良かったのか激論していました。
ミカバンドのメンバーは時期により、様々な形態に変わる特殊なバンドでした。ギタリストの高中正義。ギタリストChar等。どちらも 日本で指折りのトップギタリストです。
①第1期(1971年11月 - 1972年9月) シングル「サイクリング・ブギ」
加藤和彦・ミカ・つのだひろ
https://youtu.be/Q55kFFJetig【with 霧島カレン】
②第2期(1972年9月 - 1973年10月) アルバム『サディスティック・ミカ・バンド』
③第3期(1973年11月) シングル「ハイ・ベイビー」
④第4期(1973年末) この時期の音源なし
⑤第5期(1974年2月頃 - 1975年6月) アルバム『黒船』
⑥第6期(1975年6月頃) この時期の音源なし(ただし、テレビ出演の映像あり)
⑦第7期(1975年7月~1975年11月) アルバム『HOT! MENU』『ライブ・イン・ロンドン』
⑧1975年に リーダー加藤和彦と ボーカルの加藤ミカさんが離婚。 バンドは解散になった。
⑨1985年、加藤和彦、高中正義、高橋幸宏、後藤次利に坂本龍一、松任谷由実【1,5代目 ボーカル】「Sadistic Yuming Band」としてライブをする。
⑩1989年、加藤和彦、高中正義、小原礼、高橋幸宏の4人に桐島かれん【 二代目ボーカル】を加えて Sadistic Mica Band 【Mika→Micaに変更】
⑪2006年、加藤和彦、高中正義、小原礼、高橋幸宏の4人に木村カエラ【三代目ボーカル】Sadistic Mica Band Revisited
加藤和彦さんは フォーク村にも出演してました。 後半は サディスティクという名前で活動していました。
タクシードライバーに影響されて
10代の時に影響された映画といえば、たくさんありますが強いて云うと、このタクシードライバー です。
1976年制作の映画です。主演はロバートデニーロ。ベトナム戦争は何のために始まって、その後の米国ではどんなことが起きていたのか。そんな事に興味を持っていた当時の私に、 何気なく入った映画館で出会った映画でした。見たあともの凄いショックで、暫く主人公のトラヴィスの心境になっていました。
何か分からないが漫画「愛と誠」の誠の心境とトラヴィスの心境が一緒なのかもと、私は勝手に解釈し、その後は社会や学校の体制を斜に構え見ていた気がします。
ベトナム戦争帰りの元海兵隊員が、ニューヨークに戻り、タクシードライバーになって数々と物語が続くストーリーでした
カッコいいと思ったシーンは、拳銃を買い腕先から隠し拳銃が飛び出してくる装置を作っているシーンでした。
鏡に映る自分に向かって「You talkin' to me?」と言うシーンは 暫く真似したセリフでした。 アイリスと名乗る少女(ジョディ・フォスター)の可愛さにも 魅了されました。
私はこの映画を見るまでは、アメリカに憧れがありました。 しかし、タクシードライバーに流れるニューヨークの実社会を見て なんて怖い環境なんだとをいう印象を受けました。
ちょうどその頃、テレビでミッキー安川さんのドキュメンタリー番組がアメリカの内情を紹介していました。
【ミッキー安川は その後あれは全て演出だったと告白している】
とても ショッキングなシーンの連続で 麻薬取引の現場や黒人スラム街に潜入、ポルノ街の取材など アメリカの裏の顔を取材していた。 何度も命の危険に晒されたとテレビでは言っていた。 これも ミッキー安川が主導した演出。でっち上げでした。
完全に信じていた私は「ニューヨークってそんな街なのか」と憧れだったアメリカに幻滅しました。そんな時に出会った映画でした。 タクシードライバーで登場するニューヨークの街は、荒んでいて犯罪が横行する危険な街でした。 今までベトナム戦争中のアメリカを応援していた自分に幻滅すら感じました。逆に、この映画で敵国ベトナムにシンパシーを感じるきっかけにもなりました。
私は、北ベトナムの指導者 ホー・チ・ミンに関する本を何冊か読み、高校の疑似面接体験では 「尊敬する人は誰か」と聞かれて「ホー・チ・ミン」と答えました。
その後の先生達の態度が一変し、全生徒の中で、その名前を出したのは お前だけだと言われ、以降 全生徒の中で要注意人物となってしまったようです。
この映画に影響されたアメリカの若者はたくさんいるらしく、レーガン大統領暗殺未遂事件を起こした犯人も その一人との事です。
テレビや映画の影響力って怖いですね。
ただし、何でも信じてしまう若者は、その能力自体特別な能力で素敵なことだと思います。青春時代に、どんな映画を見て、どんな本を読むか、そして、どんな人に出会うかでその人の将来に繋がるきっかけや指針になるかも知れません。
ただ 私の場合は、20歳まで社会に対し斜に構えた態度でいました。それは映画タクシードライバーに影響されていたのかも知れません。
北海道の失われた駅とその街のアイドル。
北海道の失われた駅。
昭和30年代、40年代 日本一の石炭輸送量を誇った北海道の石勝線夕張支線の清水沢駅。1897(明治30)年2月16日に開駅した清水沢駅は、2017年に開駅120周年を迎えました。その時はマスコミも集まり大変な賑わいだったと聞きます。
その三年後の2000年3月、石勝線夕張支線廃線に伴い清水沢駅は廃駅になる事が決まっていました。そして今年の2月16日、、その日はささやかながら駅からホーム迄の歩道に蝋燭を灯して清水沢駅開業123周年を祝ったそうです 。
【駅に行ってきた】Rail工房天都さんより
私が幼かった頃、清水沢駅前で アイヌの人が持っていた子熊の背中に載せて貰った記憶があります。 清水沢駅前は賑やかで駅前にある食堂は学生に大人気でした。ラーメンが150円の時代でした。
生まれて初めて パチンコをしたのも清水沢駅前のパチンコ屋さんです。父の隣でパチンコ玉を貰って玉を打ちました。 当時はパチンコ玉を一個づつ入れて打つ台でした。 右手にパチンコ玉、左手に手動式パチンコ打ちレバーを…。そして右手をクロスしパチンコ玉を小さい穴に入れ続けます。左手は上から落ちてくるパチンコ玉をひたすら打ち続けます。
当時のパチンコ台
パチンコ玉がガラスに当たって、とてもうるさかったのを覚えています。椅子があったのかなかったのか。全く記憶にないのですが、以前、調べたパチンコの資料では、当時は立って打っていたと書いてあり、そうだったかな?と記憶を巡らしたことがあります。
今では信じられないですよね。
パチンコ台の裏に人がいて 玉の出し入れをしていました。パチンコで勝利すると、たくさんのチョコレートに交換してくれて嬉しかった思い出があります。
清水沢駅は大きな駅でした
駅には、蒸気機関車、ディーゼル機関車、客車等が、いつも停車していて線路は五本くらいありました。この清水沢駅は 夕張支線の中でも大きな駅で、とても重要な役割をしていました。清水沢駅は、三菱石炭鉱業大夕張鉄道の乗り換えの駅でした。あのダルマストーブ列車があった私鉄線です。
ダルマストーブ
そこは三菱大夕張炭鉱があり、そのヤマからの石炭が清水沢駅に集まります。国鉄の夕張支線からは、御本家の夕張炭鉱のヤマから次々と石炭車がやってきます。更に、地元の清水沢炭鉱のヤマからも石炭が集まります。夕張で掘り出した石炭の殆どが、清水沢駅を通りました。その後 石炭は苫小牧に向かいます。
清水沢駅は、人と石炭と荷物がたくさん集まる大集積地の駅でもありました。
大夕張鉄道スハニ1形式スハニ6形客車
三菱大夕張鉄道は、古い客車を使っていたので鉄道マニアの写真家が線路脇にたくさん詰めかけていました。大夕張鉄道の廃止は1987年です。廃線の日には全国各地から鉄道マニアが集まり、清水沢にこんなに人が集まるのかというくらいの大盛況だったそうです。
ダルマストーブ客車は、廃線後に夕張に寄贈され南大夕張駅跡地に野ざらしで保存されていました。その客車の隣にはラッセル車も一緒に置かれていました。90年代後半には、長年野ざらしのままだったのでスクラップ同然の姿になっていました。 その姿を見たとき、私はショックを受けました。
【その後、99年に大夕張鉄道保存の会が発足し、客車だけは修繕保存したそうです】
大夕張駅跡地に保存されたラッセル車
夕張市民は、何でわざわざこんな片田舎に、こんな全国の写真マニアが集まるのか全く理解出来なかったようです。当時の夕張の大人たちは、蒸気機関車、客車、レッスル車などの珍しさの価値に全く気付いていなかったのです。
まさに灯台もと暗し。蒸気機関車をあまりに身近で見ていた為、当然あるもの…見飽きたもの…もっと言うと、生活するには大変迷惑で厄介なモノという印象を持っていました。
蒸気機関車は、石炭を燃やし水を水蒸気に変えて動力にしています。蒸気機関車の煙突からは石炭を燃やした黒煙が勢いよく出てきます。ズッシリと重い貨物車や石炭車が連立しているときは、更にものすごい勢いで黒煙が噴出していました。
1970年前半の 室蘭本線、夕張支線。
坂ノ下田村麿呂さんより
蒸気機関車が、力強く走る時は、蒸気を両サイドから勢いよく吹き出し、煙突からは真っ黒な煙がものすごい勢いで噴出します。特に標高の高い夕張では、数ある蒸気機関車の中でも最高馬力のD51【通称 デゴイチ】蒸気機関車が主流でした。デゴイチは蒸気機関車の中でも大人気の機関車でした。、車に例えるとフェラーリやランボルギーニのような存在です。その真っ黒く黒光りしたデゴイチが、清水沢駅で見渡す限り鎮座していたのです。
デゴイチが走る時「シュシュ・ポッポ! シュシュ・ポッポ! ガタンガタン。シュシュポッポ! シュシュポッポ!」と こんな音に聞こえます。 そのため幼い子たちは蒸気機関車のことを「ポッポ、ポッポ」と呼んでいました。幼な子を持つ母親は、道の踏切で列車が来るのを待っている間「ポッポ来るよ。ポッポ来るよ」と幼な子をあやします。夕張っ子定番の幼な子のあやし方です。
しかし、線路脇で生活する大人たちは大変です。デゴイチの煙が凄いので、外に洗濯物も干せません。冬にはラッセル車が掻き分け出来た雪山が真っ黒になるくらいでした。何せ 客車に乗るときは窓を閉めないと煙が入って大変でした。そもそもデゴイチは、めちゃくちゃうるさく、石炭を燃やした匂いで臭いのです。夕張の大人たちにとって蒸気機関車は、厄介モノで迷惑なモノでした。
私が病院に入院したとき、蒸気機関車の運転手のおじさんが、私の隣のベッドの方で、そのポッポ屋のおじさんにデゴイチの魅力を色々聞きました。その時に私は蒸気機関車の魅力に取り付かれていました。なので夕張の大人たちの気持ちが全く分からなかった記憶があります。
夕張では、100両以上の石炭車を連結する時もあり、とても珍しい三連結のデゴイチを見ることができました。私も生涯に二回しか見たことがありません。とても迫力のある姿でした。
「三菱大夕張線 清水沢駅発車」
kamesansg2002さんより
https://youtu.be/AJ3qmG5W4ZY
三菱石炭鉱業大夕張鉄道が 蒸気機関車からディーゼル車になったときは、寂しさを感じました。間もなく国鉄までもSL蒸気機関車デゴイチからディーゼル機関車に変わりました。
車窓・清水沢駅~夕張へ azaz31415さんより
【1985年8月3日撮影】
私が社会人になっていた時、全く知らぬ間に大夕張鉄道は廃線になっていて線路はすでに撤去されていました。
北海道唯一の私鉄、三菱大夕張線が廃線となりました。もしこの頃に、SL蒸気機関車の歴史的価値を知る大人が夕張にたくさんいて、動力可能なデゴイチを大事に保存されていたならば、今ごろ夕張の観光の目玉として大活躍していたと思います。20代の頃、地元に帰るたびに友人とお酒を酌み交わしながら、そんな話をしていました。【近年、一度だけ石勝線夕張支線に蒸気機関車が戻ってきて走ったことがあります】
この清水沢駅を見たときが、一番 私がショックを受けた時です。当時の清水沢駅の姿はもうそこにはありませんでした。清水沢駅の貨物専用の大きな建物がなくなっていて、ビックリするくらい小さな駅になっていました。
我が街のアイドル「ザ・リリーズ」
「好きよ キャプテン」を歌った双子の歌手 ザ・リリーズは、この清水沢駅前商店街の出身です。私の先輩になります。
ザ・リリーズ/好きよ キャプテン
当時の清水沢駅前商店街
清水沢駅の隣脇に、昔は大きな貨物集積所がありましたが大夕張鉄道が廃線と共に無くなり、大きな駐車場へと変わりました。 そこは夏になると地域の祭りの会場になっていて、ザ・リリーズは幼い頃からそこの常連です。地元でも歌が上手い双子と云われていました。
ザ・リリーズが「ドリフの8時だよ 全員集合!」の順レギュラーになるくらい有名人になり、ザ・リリーズの家族は東京に移住することになりました。
その最後の日、 今までザ・リリーズを応援していた人の家庭に、ザ・リリーズが家族共々挨拶回りをしていました。
雪がしんしんと降っていた夜、雪が積もった自宅の前に 見覚えがある軽トラがエンジンを掛けて止まっていました。
「ああ、燕電機の軽トラだ」
ザ・リリーズの実家は、清水沢商店街で電気屋を営んでいました。 近づくと 軽トラの助手席にはザ・リリーズの妹さんが乗っていました。 今では有名人…でも 顔見知り…私は彼女に会釈します。彼女も会釈を返していました。
それが清水沢で、ザ・リリーズと会った最後になります。
ザ・リリーズの実家、燕電気商会
私が20歳となり、東京に住んでいた時、ある雑誌にザ・リリーズを見つけ久しぶりに彼女ら二人を見ました。何かのファッション誌で 二人は小さな写真で掲載されていました。原宿の表参道で撮影しているようで お洒落な姿をしていました。その時には、ザ・リリーズはお茶の間のテレビにはめっきり姿を見せることはありませんでした。
「あぁ 今はこんな仕事をしているんだ…あんなに有名人だったのに…」
彼女達も「 ザ・ピーナッツ」の継承者「ザ・リリーズ」と謳われた初期のアイドルです。 松田聖子さんより前の時代です。
現在の清水沢駅前商店街
今は清水沢駅もなくなり、清水沢駅前商店街は、その当時の姿を忍ばせるモノすらありません。
閉鎖した清水沢駅
清水沢の線路もすぐに失くなります
唯一、学生時代から記憶に残る連絡橋
ただ、深い記憶の中に、私の知っている古里があります。それが今でも鮮明に生き続けています。
記憶に残る幼い頃の清水沢駅
…ネットで、清水沢駅のデゴイチを見つけ、思わず書き綴りました。
4年前の清水沢駅と清水沢商店街
Interurban6304「真実の風景」より
私の卒業した清水沢小学校、今や廃棄です
すけほぴさんより
国鉄最後の特別放送 IC780さんより
記録用
現代ビジネス編集部 2019年2月
「官邸人事」によって混乱に陥った農水省の知られざる悲劇
農林水産省がいま、混乱に陥っている。農業協同組合(JA)制度の改革やコメの減反廃止などを官邸主導で推し進め、「豪腕」として鳴らした奥原正明前次官の人事政策の傷跡によるものだ。
奥原氏は自らの出身部局に優秀な人材を集める一方、次官候補とされる優秀な人材を退官させるなど、徹底的に対抗勢力を排除した。次官の座は現在の末松広行氏に譲ったが、顧問として「院政」を敷く形で影響力を保持し続けている。
一方、農林水産省トップの吉川貴盛大臣のリーダーシップも不在だ。政策面での方針も打ち出せず、兼務する自民党北海道連会長としても、4月に控える北海道知事選で、自身が推す候補を認めさせるのが難航した。さらに、北海道議選で周囲の反対を押し切って次男に公認を与えたにもかかわらず、最終的に取り下げたことも影を落としている。
「豪腕改革派」のもたらす弊害
抵抗に遭いながらも、JAグループを束ねる全国農業協同組合中央会(JA全中)の地域農協への指導・監査権の廃止による権限弱体化などを進めた。
その後、同期入省の本川一善氏が2015年に次官に就任したため、霞ヶ関の慣例に従い、奥原氏は退官すると思われた。
しかし、菅義偉官房長官による異例の人事で、本川氏は就任から1年も経たないうちに退官し、奥原氏が16年に次官に就任した。
奥原氏はさらにコメの減反廃止などの農協改革を推し進めた上、漁業資源管理の強化や養殖業への民間参入を促す漁業改革にも着手。昨年末には約70年ぶりの改正に向けた法案の成立を実現している。
この経歴をみると、奥原氏が「豪腕改革派官僚」であることは明らかだが、省内の敵対勢力の排除にも大なたを振るった。
奥原氏は次官就任から2年目を迎えた17年夏の幹部人事で、次官候補とされていた4人(肩書きは当時)を冷遇した。エースと目された今城健晴消費・安全局長、今井敏林野庁長官、佐藤一雄水産庁長官を退官に追い込み、筆頭局長ポストの官房長の任にあった荒川隆氏を農村振興局長に格下げしたのである(荒川氏は昨年夏に退官)。
特に、同期入省でライバルだった当時の前次官・本川氏の出身部局である生産局に対する冷遇ぶりは際立っている。農水省関係者はこう嘆く。
「酪農や畜産を所管する生産局は、本来なら次官レースの保守本流コース。例えば畜産部長は酪農家との厳しい価格交渉が求められるエース級がこなすポストでしたが、奥原次官時代からはすっかり技官のポストになってしまい、懸念材料になっています。
最近話題になっている和牛の受精卵と精液の持ち出しを厳罰化する法案も、秋の臨時国会に提出されますが、担当課は技官ばかり。国会議員の先生方に説明するノウハウは事務官のものですから、きちんとした対応ができるとはとても思えません。農水省全体でも、中間管理職に優秀な事務官がいなくなっています」
本当に「改革」が必要なのか?
一方、奥原氏は自ら「天領」と呼ぶ経営局出身者の「イエスマン」を抜擢した。自らの腹心を、経営局長(大沢誠氏)と水産庁次長(山口英彰氏)につけたのだ。
経営局長は自身の跡継ぎということだが、水産庁次長への人事には、漁業改革に対する思惑もあった。水産庁長官に、技官としては史上二人目の長谷成人氏を就任させるという異例の人事を行ったことが補助線となる。
「要するに、矢面に技官を立たせて、実権は手下に与えるという構図です。長谷長官は国会での漁業改革法案について、野党から『漁業現場に説明が行き届いていないのでは』という質問を受けて『キリがない』と答弁し叩かれていましたが、こういう不用意な答弁は、事務官ならあり得ない。実際に我々水産族への根回しは山口氏が中心でした」(水産族の自民議員)
漁業改革のプランそのものも、奥原氏が任期を異例の3年に伸ばしたい思惑から出た、との観測までなされている。
水産業はJA全中のような中核組織を持たない。金融など信用事業の規模も、JAグループが誇る、日本の国家予算の1年分にも相当する100兆円規模に比べれば格段に小さい。
近年、漁業信用組合では統廃合の動きも進む。別の自民議員からは「改革が必要との陳情は漁協からも企業からも出ていなかった。奥原氏が主導する規制改革推進会議のためのごまかしの議論だ。農協改革の例を見て、官邸にアピールしたかったのだろう」と、当初から改革の必要性を疑問視する声が多かった。
実際、示された改革法案は全国の漁協から強い反発が予想されたためか、既存業者の権利を事実上継続的に認めると明記するなど、譲歩をうかがわせるものとなった。
奥原氏は官邸に続投を嘆願したが拒否され、昨年7月末で退官し、農水省の顧問に就任した。当時の人事を決定した斎藤健前農水相が「農林漁業の改革の一定の区切りが付いた」と判断してのことだった。
「院政」の実態
異例の「長期政権」の夢は叶えられなかった奥原氏だが、顧問としては漁業改革法案の策定に隠然たる影響力を持ち続けた。
農水省OBは「農水省の3階には顧問室がありますが、そこに現役の幹部が足を運び、色々とお伺いを立てています。次官室や秘書課には奥原氏の腹心や息のかかった部下がまだ大勢おり、不用意な発言や動きがあればすぐに奥原氏に届くようになっていています。
彼が次官に就任してから、省内の雰囲気がかつてよりも重苦しくなりました。次官用資料も奥原氏のために相変わらず用意されていたという話も出ていますから、いつまで顔色をうかがっているんだ、と情けない限りです」と嘆く。
農協改革に次ぐ漁業改革を「やり遂げた」奥原氏は、部下への論功行賞として、腹心の大沢経営局長を国際交渉などを手がける農林水産審議官に、山口水産庁次長を「天領」である経営局長にする人事を固めている。
農水省内では、奥原氏が顧問を退いた後の「次のポスト」についても関心が高まっている。政府の政策に助言する内閣官房参与に就任すれば、官邸と組んで一層の農林水産改革に切り込んでくることが予想されるためだ。農水省関係者が話す。
「省内の秩序をぶっ壊してきた奥原氏ですから、OBによる天下り先の調整は望めないでしょう。エースと呼ばれた今城氏が、次官に就任できずに退官に追い込まれたため、OBたちから『かわいそうだ』という声が上がり、次官の天下りポストである東京海上日動顧問に就いたのとは対照的です。ただ奥原氏は昔ながらのムラの論理に縛られないだけに、怖さは残ります」
後任の次官も「異例づくし」
では、奥原氏の後任次官である、末松広行氏とは何者か。
末松氏は1983年入省。小泉純一郎政権で2002年から首相官邸に出向し、首相を補佐する内閣参事官を約4年半務めた。その後は農村振興局長などを歴任し、2016年6月からは経産省との幹部人事交流で同省産業技術環境局長に就任していた。
農水省では林野庁や水産庁の長官が次官に昇格するケースも多いが、出向先の他省庁から直接次官に就任するのは異例の人事と言える。
「奥原氏は自身の続投を官邸に訴えて拒否された後に、腹心の大沢氏を推して院政を本格的に敷こうとしたが、これもだめだった。それなら、というわけで、変な色のついていない末松氏を推したというわけです。奥原氏自身は特に末松氏に思い入れはありませんが、こいつなら御せる、と考えたんでしょうね」と分析する。
末松氏といえば昨年12月、写真週刊誌「フライデー」で、元部下の女性に対するセクハラ・パワハラについて報道されたのが記憶に新しい。
記事によると末松氏は、総合食料局食品産業企画課食品環境対策室長を務めていたときの女性部下に対し、内閣参事官に出向してから1年以上にわたってセクハラ・パワハラを繰り返したという。大量のメールを送ったり、電話をしたりして食事に誘い、拒否されると激怒した。
女性は精神的に追い込まれ、人事担当者に相談したが、まともな対応をされずあしらわれたという。自宅の官舎前で取材を受けた際に末松氏は「(女性本人が)傷ついたと言っているなら次官を辞める」と約80分にわたり潔白を訴えたとも書かれている。
全国紙政治部記者によると、この記事が掲載された「フライデー」が発売される前日の昨年12月6日、早刷りが官邸や農水省、報道各社などの関係者に出回ったため、末松氏は緊急で釈明会見を開いたという。
「それが、会見を開いたまではよかったのですが、肝心なことになると『知らない』『覚えてない』『記憶にない』のオンパレードで、農水省内でも『あの答弁はない』との反応がありました。
財務省次官と女性記者の問題があったばかりの状況なのに、会見に同席した秘書課長も『昔のことで、女性が相談に来た記録は残ってないし、対応にも問題はなかった』の一点張り。霞ヶ関というところが男社会なのが浮き彫りになるだけの対応でしたね」
また、別の専門紙記者は「実は、末松氏のこの問題は省内では知られていた話で、官邸も農林族の自民議員もみんな知っていました。そもそもこのパワハラ問題が起きた時の秘書課長は奥原氏でしたから、後任を指名する時に知らなかったはずがありません。末松氏の『アキレス腱』を知った上であえて次官に就任させたわけで、官邸の覚えがよほどよかったのでしょう。
末松氏が次官に就任した時に、次官候補だった松島浩道農林水産審議官が同じポストにとどまったのは、末松氏がこの問題で退任することになった場合に備え、控えを残すためだったとも言われています」と分析する。
報道にショックをうけたのか、末松氏は直後の記者クラブとのオフレコ懇談会を「諸般の事情により」欠席している。先の専門誌記者によると、マスコミ対応も饒舌だった報道以前とは違い、避けるようになったという。
くすぶる「経産省との統合論」
末松氏の次官就任の際に、霞が関でまことしやかにささやかれたのが「農水省」と「経済産業省」の統合論だ。
農水省は2001年の省庁再編の時も名称変更されず、統合の波を乗り切った。「食の安全保障」という金科玉条があるためといわれるが、官邸サイドからすれば規制にがんじがらめにされた農水省を改革したい思惑は常にある。安倍政権で力を持つ経産省が人を送り込み、改革を進めた後で統合にもっていこうとするのも無理はない。
実際、経産省出身の斎藤健前農相時代には、斎藤氏の1年先輩にあたる嶋田隆経産省次官が、宗像直子特許庁長官を農水次官もしくは次官級の農水審議官に据える算段を進めていた。
結果としてこの人事案は実現しなかったが、奥原氏と、「突破力がある」と霞ヶ関で評価される宗像氏のコンビは、規制緩和を進めたい勢力にとってはうってつけの人選だったといえる。
先の専門誌記者は「宗像氏は安倍総理の秘書官もやってたから、加計学園での柳瀬唯夫氏のことが取りざたされた時期だったために実現しなかった。生え抜きでない宗像氏は、次官は無理でも農水審議官ならあり得たはず。末松氏は経産省に出向していたこともある上、農政改革を進める奥原氏に指名された手前、言うことを聞かざるを得ない。こういう統合論は末松氏以降もくすぶり続ける」と予想する。
大臣は「節操のない人」
一方、農林水産省トップの吉川貴盛大臣は、就任5ヵ月が経過したが存在感を発揮できていない。生粋の農水族議員でないこともあり、政策面でのリーダーシップをとることが難しい上に、兼務する自民党北海道連会長としての足元も揺らいでいる。
吉川氏は北海道札幌市の出身で、北海道議を経て、1996年の衆院選で初当選し、6期目を迎える。
農林水産大臣は農林関係に強い、いわゆる農林族が就任するのが普通だが、吉川氏は経済産業副大臣を務めるなど根っからの農林族ではない。
自民党の農林族議員は「環太平洋経済協力協定(TPP)の議論が出た時に農水副大臣に就任し、自民党の対策本部長として話をまとめるように言われたのが彼の農林族としてのスタートです。元々自民が与党に返り咲いた2012年12月の衆院選では、日本のTPP参加に反対の立場を取っていましたから、180度態度が変わったことに、地元の関係者は『節操のない人』と反感を示していました」と話す。
吉川氏は二階派で、片山さつき地方創生相や桜田義孝五輪相とともに、いわゆる「入閣待機組」だった。ある農相経験者は「吉川氏の印象は、とことん安全運転な人。目立つことをしない代わりに、上の言うことには忠実」と分析する。
また全国紙記者は「農水省関連のイベントがあると、挨拶でいつも『二階先生のおかげで』と話してオヤジにアピールをするのがクセになっていますね。マスコミに取り上げられるわけでもないのに、正直痛々しい」とあきれ顔だ。
一方、吉川氏は菅義偉官房長官と近い。農水副大臣だった2013年には、菅氏の要請を受けて農協改革に着手した。党のプロジェクトチーム座長として、コメの生産調整(減反)見直しや農地中間管理機構の創設など政府の改革をけん引。菅氏が進めた航空行政の規制改革についても北海道連会長として推進するなど、政権中枢に食い込んでいった。
進む農林族の「弱体化」
では、肝心の大臣としての仕事ぶりはどうだろうか? 専門紙記者は「とにかく官僚の作った答弁書のペーパーを読み上げるだけ。自分の考えなど全くなく、徹頭徹尾丸投げですね。まるで『原稿読み上げマシーン』みたいだと言われています」と話す。
北海道の自民党関係者も「吉川氏は地元が札幌市内の都市部で、農業地帯ではありません。農業に思い入れもなく、たまたま大臣になれたからルーティンでこなしているというのが本音でしょう」と冷ややかだ。
日本の農業界はアメリカとの日米新交渉を控えるが、交渉のトップは茂木敏充経済再生担当相が務めており、吉川氏に実権はない。農水相は農業団体などとの調整役を務めるが、官邸の「自分たちと距離の近い吉川氏を就けた方がよいとの判断」(官邸筋)が働いた。
日米新交渉をめぐっては、昨年10月の自民党幹部人事が「自動車と農業のバーター」がテーマになることを見越し、農林族の弱体化を狙ったものとの憶測も飛んだ。
農林族の自民議員は「重鎮の野村哲郎氏は農林部会長にとどまりましたが、森山裕氏は国対委員長、塩谷立氏は党の財務委員長、江藤拓氏は首相補佐官と、軒並み責任の重い役割を負わされています。本人たちは『問題無い』というでしょうが、農業界からの声が反映しにくいように、都合よく配置されたと見られても仕方ありません」と指摘する。
大臣の地元・北海道のゴタゴタ
吉川氏は農林水産相と北海道連会長を兼務する。4月の北海道知事選、統一地方選を控え、道内のまとめ役となる道連会長は重責だ。就任会見では兼務について「北海道議会の代表の皆さまから、ぜひ続けてほしいというご要請をいただいた」と意気込みを見せていた吉川氏だが、こちらでもすでに「足元の脆弱さ」が浮き彫りになっている。
まず北海道知事選では、昨年末に現職の高橋はるみ氏が不出馬を明らかにすると、北海道連としては次の候補を立てる必要に迫られた道連内は分裂の様相を呈した。
吉川氏は和泉氏に直接、鈴木氏への一本化の意向を伝えたが、和泉氏擁立の声は下がらなかった。鈴木氏が無所属での立候補表明に踏み切るなど混乱は深まったが、最終的には鈴木氏を候補とすることで落ち着いた。
北海道連執行部の自民議員は舞台裏をこう明かす。
「鈴木氏は法政大学の同窓生で菅氏と近く、吉川氏も菅氏の要請を引き受けたというのが本音。一方、和泉氏も北海道地震の際の対応などを通して、各地の自治体や商工会議所との関係を深めていた。
ただ、官邸の強引なやり方を嫌っている人もいるし、亡くなった中川昭一氏のような大物議員なら、そもそもこういう事態にはならないのは確か。要するに、軽量級の吉川氏は『なんでお前の言うことを聞かなくてはならないんだ』という道連の反発を抑えきれなかったのでしょう」
次男ゴリ押し騒動
吉川氏が地元で抱えるゴタゴタは、これにとどまらない。4月の北海道議選で、周囲の反対を押し切り、次男の統勝氏を自らの地盤の札幌東区に擁立しようとしたのだ。
吉川氏の地盤である札幌二区は札幌北区の一部と東区からなり、すでに北区では長男の隆雅氏が県議として3期目を迎えている。今回、東区で自民道議が引退することを受けて、吉川氏が統勝氏を擁立しようとしたが、自民党札幌東区連合支部の役員の半数が辞表を提出する異例の事態に発展した。
最終的には、吉川氏が北海道連会長として昨年12月に公認をゴリ押しした。北海道の自民党関係者によると、地元では「札幌は吉川家のためにあるんじゃない」と大批判が起きたという。
しかし、この「次男ゴリ押し騒動」は、ほどなく断念に追い込まれる。
吉川氏は昨年末に統勝氏に公認を与えた翌日、なんと氏を自らの政務秘書官に就任させた。これにはさすがに「身びいきもたいがいにしろ」との批判が上がり、また自民候補が二人になることで地元の公明党との関係悪化も危惧され、結局は統勝氏の公認を取り下げざるを得なくなったのだ。
先の自民党関係者は「統勝氏が政務秘書官になること自体は、法的な問題はありませんし、安倍晋三首相も故・安倍晋太郎氏の外務大臣時代の秘書官を経験しています。しかし結局のところ、こういうことを繰り返す吉川氏を、地元は信頼できないということにつきるのでしょう。道連会長が交替してから立て続けに騒動が起きていること自体、敵の多さを物語っています」と話す。
この4月には日米新交渉も始まるとされる。「農業が食い物にされている」という農業関係者からの批判も高まる中、衆参ダブル選となった際の吉川大臣の交代の観測も出始めている。
次官、大臣と、「官邸人事」が猛威をふるう農水省。確かに、「ムラ」とも呼ばれたかつての人事慣行を打破して進めた改革の評価は分かれるところだが、省内の混乱はしばらく収まりそうもない。
財界札幌
新型コロナウイルスへの対応をめぐり、北海道知事・鈴木直道氏(38)の株が上がっている。月刊誌「財界さっぽろ」は、道知事に当選する直前の 2019年3月号 にて「若くてさわやか」だけではない 鈴木直道の知られざる“政治家”の顔」という記事を掲載していた。地元メディアが伝えた若きリーダーの素顔とは――。
「したたかな政治家の顔もあるんだと感じた」
「若すぎる」「経験不足」 自民党道連による知事選候補の選考期間中、夕張市長の鈴木直道にはこうしたマイナス評価が多く寄せられていた。 だが鈴木はこうした声をはねのけ、2019年1月29日に自ら出馬の意向を表明した。このとき、同党道連の選考はまだ終わっておらず、2月2日には鈴木ともう1人の候補である国土交通省北海道局長の和泉晶裕の意向調査をおこなうことになっていた。 鈴木はそれを待たずして、2月1日に出馬記者会見を開き、その日のうちに公明党道本部、自民党道連を訪れ、推薦を要請した。そして公明は異例のスピードで即日、推薦を決定した。 「『順番が違うだろう』と“和泉派”の人たちは怒っていたが、2月1日に鈴木一本化の流れはほぼ固まり、(参院議員の)橋本聖子さんの出馬説も再浮上したけれどすぐに消えた。最終的に自民は鈴木さんを推薦。結局、あのとき鈴木さんが勝負に出たのは正解だったわけだ。公明とは事前に打ち合わせをしていたのだろう。『若くてさわやか』だけではなく、したたかな政治家の顔もあるんだと感じた」(自民関係者)
菅官房長官とはすぐに意気投合
鈴木の知事選出馬に否定的な立場をとっていたのは、自民道議や国会議員、経済人だけではなく、市町村長の大半も“和泉派”にまわった。鈴木が2016年にJR石勝線夕張支線の廃線をJR北海道に逆提案したことも、路線見直し問題を抱える自治体の首長から「スタンドプレーだ」と不評を買っていたという。 一方で、こんな声もある。 「誰がどう考えても、遅かれ早かれ廃線は決まっていた。ならばJRからの支援を引き出しながら、バス転換を図ったほうがいいという鈴木さんの判断は間違っていない。かなり唐突ではあったけど、この件で政治判断ができる人だと認識した」(交通政策に詳しい大学教授) 鈴木と官房長官の菅義偉が緊密な関係にあることは、新聞報道などでも触れられている。 菅は夕張破綻・財政再生団体指定の判断をした第1次安倍政権時の総務大臣だった。鈴木は市長就任後、当時は民主党政権だったが、法政大学法学部の先輩でもある菅を訪問している。お互い働きながら大学に通った苦学生だったこともあり、すぐに意気投合。現在も菅は夕張を応援し続けている。
元SMAPメンバーとの懇談も
鈴木周辺から漏れ伝わる話では、2人は2カ月に1回のペースで会っているという。鈴木と親交のある自民関係者は「鈴木さんが上京して会っているのは、菅さんだけではありません。東京の経済人などにも会い、人脈を広げている。こうした地道な活動が、2018年5月に元SMAPメンバーとの懇談などにつながっている。自分のブランド力を磨く力はかなり高い」と明かす。 さらにさかのぼると、最初の夕張市長選のとき、強力に鈴木を応援したのは、元東京都知事の石原慎太郎や猪瀬直樹だった。当選後も都が夕張に職員の派遣をおこなうなど、協力関係は続いた。 だが14年、猪瀬が公職選挙法違反で公民権停止の略式命令を受け辞職。その後の選挙で都知事になったのは、猪瀬都政に批判的な舛添要一だった。このとき、都と夕張の協力関係は一度途切れかかったという。 「鈴木さんと舛添さんは接点がなかったが、ここでも培った“東京人脈”を駆使しながら初会談を実現し、支援継続を約束させたと聞く」(前出自民関係者)
2カ月に1回上京して官房長官に会い続けた
道内の若手地方議員との交流も積極的におこなっているようだ。 例えば道央のある地方議員は鈴木に対して、夕張で実施されているコンパクトシティー化を自分の地域でもできないか、相談をしたことがあるという。この議員は「ふるさと納税についても鈴木さんから詳細なアドバイスをもらいました。わが町では、夕張を参考にした仕組みを取り入れています」と語る。 前出の大学教授は次のように語る。 「よく『国の言われたことをやっているだけ』と小ばかにされているが、鈴木さんが夕張でどれだけ神経をすり減らして国や道、職員とやりあってきたか、みんなわかっていない。17年には財政再建計画の見直しも勝ち取ったが、これも2カ月に1回上京して官房長官に会い続けた政治家としての成果。政策立案能力も市長として過ごした8年間で格段に上がっている」 しかし、空知の自民関係者は鈴木の政治家としての“甘さ”を指摘する。 「気が強く、強引にものごとを進める力があるのは認める。だが、市長会にも顔を出さない、空知の政治関連の会合にも出ないじゃ、他の自治体関係者から反感を買うのは当たり前。鈴木さんは『お金もないので、会合には出られなかった』と言っているみたいだが、知事選に出るのであれば、地元政界の人たちとの付き合いも大切にするべきだった」
新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、北海道の鈴木直道知事は2月28日、「緊急事態宣言」を発表した。鈴木氏はその2日前にも、国に先駆けて道内の小中学校の休校を要請。会見において「結果責任は知事が負います」と発言したことにも注目が集まった。
7年前の12月、石原慎太郎の後任の東京都知事を選ぶ選挙の最終日、群衆で埋め尽くされた新宿・アルタ前広場に停められた選挙カーの屋根の上で、猪瀬直樹候補の応援弁士に立ったその男は、半ば絶叫するような声になった。
「皆さんから税金をいただいて飯食ってるんですから、私たち公務員が都民のために働くのは当然ですよ。でも東京都の職員はそれだけじゃだめなんだ」
声の主は、北海道・夕張市長になって2年目を迎えていた鈴木直道(当時31)だ。全国どの市町村の首長よりも給料の低い、さらに言えば前職の都職員より年収で200万円も少なくなるのを承知で、夕張市長の職に身を投じた。その実績が評価され今春、北海道知事に選ばれた人物である。
アルタ前の演説はこう続いていた。
新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、北海道の鈴木直道知事は2月28日、「緊急事態宣言」を発表した。鈴木氏はその2日前にも、国に先駆けて道内の小中学校の休校を要請。会見において「結果責任は知事が負います」と発言したことにも注目が集まった。
「首都のために100パーセント働くだけではなくて、首都を支えている多くの全国の地域のために、皆さんの故郷のためにもう20パーセント、合計120パーセント働いて、やっと都民のみなさんから合格がいただけるんだ、それが首都公務員なんだ。前例がなくても、ほかのところが一切やっていなくても東京都というのはこれをひっぱって、国を動かして、日本を牽引する」
演説の内容というよりも、挑発的なその弁舌が私の印象に残った。都庁職員時代、副知事の猪瀬から「役人的なしゃべり方では伝わらないぞ」と叱られていた都庁職員の頃の鈴木とは、全く別人のように見えたのだ。
破綻した自治体から叩き上げる
鈴木は埼玉県生まれ。両親が離婚したため母子家庭で育てられた鈴木は、高校卒業後の1999年に東京都庁に入庁。地方公務員を選んだのは、恵まれない人々にとって行政サービスがいかに重要かを肌身で知っていたからだ。
社会人になってから夜間に大学にも通ったが、大きな転機になったのは08年1月、猪瀬の発案で財政破綻した夕張市に派遣する応援職員の1人に選ばれたことだった。約2年間の派遣期間中の鈴木の行動力に心服した地元の若手経済人たちから推され出馬した11年4月の夕張市長選を制し、市長になった。
給与7割カット、手取り20万円を切る待遇を覚悟で市民に飛び込んだだけではない。当時の問題意識は「政治力も弱い小さな町に過大な問題が置かれている」ということだった。
当時の財政再生計画は「行政サービスは全国最低レベル、住民負担は全国最高レベル」に設定され、東京23区よりも広い面積に点在していた7つの小学校、4つの中学校はそれぞれ1つに統廃合され、住民税負担は増えた。これも“自己責任の結果”と見られていた。
【とはいえ 夕張をこんな形にした中田市長を推していた北側の市民は あっという間に夕張から去ってしまったけどね。中田市長をノーと言っていた市民が、いま残って頑張っているよ。ある市議は置き手紙で「すまない」と一言。夜逃げのように夕張から去って行った。噂だが当時の市役所職員は いつか夕張は無くなると言って 住宅を夕張市内には建てなかった。市外から市役所に通勤していたよ】
借金返済が優先だから、保育園が雨漏りしても、雪かきができずに市民プールの屋根が崩壊しても、市の一存では修復工事1つ決められなかった。
鈴木は国への働きかけを強め、2期目の折り返しの年だった17年3月、とうとうこの再生計画の抜本見直しを総務省が認めた。企業版ふるさと納税を活用しつつ、コンパクトシティ化に向け、認定子ども園の整備など未来志向の投資を可能にし、国の財源も引き出した。
最後は市民から「市長の給料をあげろ」という声も出たが、鈴木は8年の任期切れまで上げなかった。
38歳になった2019年4月、若さと市政の実績を買われるかたちで当選した北海道知事は、夕張市に比して予算規模でじつに約250倍にもなる道庁を率いる。8月からは知事の給料・ボーナス・退職金の3割カットも始めた。
「小泉進次郎を超える政治家になるよ、彼は」
アルタ前の演説に戻りたい。
その日本を牽引する都知事が強い基盤を築けるよう、「絶大なる支持」を投票行動で示してほしい、と締め括っていた。〈ゼツダイナルシジ〉という言葉にアクセントをつけたところで聴衆を見渡した鈴木の姿は、1人ひとりに具体的な行動をするよう、要求を突きつけるように私は見受けた。
私の横で、国会議員時代から石原慎太郎に仕える特別秘書の高井英樹も聞いていた。石原秘書軍団の中でも“一匹狼”で知られるが、直感的な洞察力は石原から重宝されてきたといわれる。そんな高井がつぶやいた。
「小泉進次郎を超える政治家になるよ、彼は」
地元ネタとユーモアを交えた応援演説が売りの進次郎は元内閣総理大臣の地盤を受け継ぎ「次の総理」の上位に必ず名が挙がる。対する鈴木は、貧困家庭に暮らした経験から都職員の道を選び政治の才を見出された。
奇しくも2人とも昭和56年生まれだ。鈴木が知事になった今年、私には高井の「予言」が何度も思い起こされた。
ジリ貧の北海道をどう建て直すか?
知事になった鈴木は北海道で何をするのか。
札幌市はマラソン・競歩の急転直下の移転によって2020年五輪の成否を握ることになった。その札幌は30年冬季五輪招致に名乗りを挙げており、今回のマラソンの成功はホストシティとしての能力の証明に直結する。一方、11月29日は道議会定例会でIR(カジノ)誘致については断念すると表明した。
いちいち注目されるのは、ジリ貧が見えかくれする北海道経済の希望を道民もメディアも探しているからだ。合計特殊出生率は東京都に次ぐワースト2位の1・27。人口はすでにピークの97年から6パーセントも減っている。
鈴木は、新しい北海道の未来予想図を描けるのか。人口は8000人とピーク時のじつに15分の1を切るまでに減った夕張市で、鈴木は何をしていたか、東京にいると見えないその仕事ぶりを知りたくなり、私は北海道に取材を重ねることにした。人口減少で経済の成長余地が減る政治は、もう利益を分け合うことはできず、不利益を押し付け合う構図が頻出する。夕張はそのモデルケースになるとも思えたのだ。
詳しくは「文藝春秋」1月号および「文藝春秋digital」に「令和の開拓者たち 鈴木直道」と題して寄稿したが、取材を通じて「巻き込まれやすい性格」だった鈴木が、次第に「巻き込んで行く技術」を確立していった姿が浮かび上がってきた。
課題先進地の現状は、日本全体にとっても他人事ではない。政府は近く正式に公表する2019年の出生数が90万人を下回ることを明らかにしたが、これは17年に発表した将来推計よりも2年も早く、少子化は一段と深刻化している。
令和の政治にどのような足跡を刻むのか、新時代の保守政治家の誕生になるのか、鈴木の今後に目が離せない。(文中敬称略)
【有識者は東京オリンピック後には、東京の人口も減っていくと言っている。日本の人口減少は深刻的な将来の問題になるはずだ。鈴木知事は、既に夕張市長時代からそれを見据えている】
【しかし、当時の農林水産省の内部は ずいぶんとゴタゴタだったようだ。そのトップの吉川元農林大臣も地元の道議の動きを掌握してないことで分かるように 人身を掌握出来ていない。彼は官邸主導の忠実な人物だったようだ。官邸主導の農業の自由化に向けた様々な 法改革も相当、影響があっただろうな。
吉川元農林大臣の息子二人を道議にする身内優先でも、保守道議からは相当な反発があったらしい。間違いなく亡くなった大物政治家、中川昭一さんよりは小物だ。【小野寺元道議は中川氏に薫陶を受けていたらしい】そこで自民党道連の道議らで国土交通省の和泉晶裕北海道局長を擁立する動きがあったが、鈴木直道氏は単独で知事候補に立候補した。【菅さんの意向もあったかな?】北海道公明党も正式に鈴木氏を推薦。北海道では公明党を敵に回すと政治は出来ない。これで道議や市町村の和泉氏の擁立は出来なくなった。
【和泉氏は、国土交通省の和泉晶裕北海道局長をしていた方だ。北海道の事情も相当詳しいはずだ。北海道知事には申し分ない】
鈴木氏は夕張市長として都庁は勿論、中央の各官庁を回っていた。菅官房長官とも何度も会って気心は知っている。ましてや 大学の先輩後輩の間柄。【この辺りが官邸肝いりと批判されているのだろう】
鈴木氏の政治的手腕は凄い。北海道知事立候補に向けた根回しは相当なものだ。鈴木氏は 思っていた以上に 本格的な政治家のようだ。しかし、石原都知事、猪瀬直樹副知事といい、菅官房長官まで大物政治家に直接会って 味方にさせる鈴木直道知事は 本当に大物になるかも、、新型コロナでは雪まつりで中国人観光客を受け入れたというが、あの時点では 政府も無防備だった。そもそも、雪まつりは札幌市長の管轄だ。そんなことより、その後の北海道の新型コロナ感染拡大を阻止した北海道方式を評価すべきだ。 あれは全国から注目された北海道方式だった。 全国のテストパターンと揶揄されていたが、結果、新型コロナ拡大を阻止している。それこそ、鈴木直道知事の手腕といえる… 菅官房長官の肝いりのIR法案も一時凍結させている。結果 新型コロナもあり IR誘致を目指していた企業が撤退した。鈴木知事は中央の意向だけでは動かない一面も持っている。今はウポポイ、アイヌ問題だ。 アイヌ先住民論争は 有識者でも様々な意見がある。しかし、ほんの少し前までは 学者も道民も アイヌは先住民だったと誰もが信じていた。アイヌは先住民ではないとする論は ごく最近の学説だ。昨今の アイヌ否定論者は 右派ビジネス者の言動に影響を受けすぎている。もっとアイヌの歴史を知るアイヌ問題に真剣に取り組む方々の意見を聞いて、何が問題なのか勉強し、しっかり鈴木知事に訴えるべきだ。それでなくとも、国連でアイヌは少数民族と決定し、それを受けて出来たアイヌ新法で、何とかギリギリのラインでアイヌ民族と留まっているのに】
夕張が財政再建団体になった理由
「財政再建団体計画」に対する反対討論
2007年2月2日
議案第2号 夕張市財政再建計画書の提出について、および、関連するすべての議案について、反対の立場から一括して討論いたします。
まず、今回の財政破綻についてその大前提となるはずの、原因も責任の所在も明確にされないまま、すべての負担が市民に押し付けられようとしており、説明責任が果たされたとは到底いえません。
解消すべき赤字額を353億円としていますが、その内訳をみれば一般会計・住宅管理会計では60億円に過ぎず、観光事業会計分が186億円と53%を占めています。
第3セクターの運営実態【Mt.レースイホテル及びMt.レースイスキー場、石炭の歴史村、その後に造られた観光施設 等々】も含め、それぞれの会計の債務がどのような経過と原因で累積したのか、明らかにする責任があるはずです。詳細は不明のまま一方的に過酷な負担を市民に押し付ることが許されるはずはありません。
徹底的な情報公開が行なわれなければ、到底市民の納得は得られません。もちろん、補助金目当てに過大な観光投資に暴走し、莫大な赤字を隠蔽しながら不適正な経理を重ねてきた、夕張市の行政責任は厳しく問われなければなりませんが、補助金制度を利用して自治体に箱物投資・観光投資をあおり、誘導した国の産業政策と同時に国の政策に乗じて、自治体を借金漬けにし、金利で莫大な利益を得た大手銀行の果たした役割と責任についても問われなければなりません。
今般 示された夕張市の財政再建計画は、11月に出された枠組みに、若干の手直しが加えられたものの、『全国最高の住民負担・全国最低の行政サービス』という基本路線はそのままで、再建どころか、市民生活が破壊され、地域破壊、自治体破壊につながるほどの過酷な内容です。
<財政破綻の原因と責任について>
炭鉱で生まれた山間の町, かつて、「炭都」と呼ばれ、最盛期は11万人を超える人口を誇った夕張市、その夕張市が今、財政破綻にいたり、財政再建計画を確定しようとしています。
そもそも、夕張市の財政破綻の根本的な要因は、国のエネルギー政策の転換による炭鉱閉山と産炭地対策にあります。明治時代の産業政策の下、開鉱し「まず石炭ありき」の中で生まれたマチが、国の政策によって石炭を掘り続け、国のエネルギー政策転換、石炭切り捨ての下で1981年、85年と続いた多数の犠牲を出した大規模災害を経て、87年の国の第8次石炭政策により、90年には全て炭鉱が閉山に追込まれました。
北炭夕張新炭鉱は閉山後、社会的責任を放棄し、それに伴って、夕張市が北炭所有の土地・住宅・病院などの引き取り、市営住宅・浴場・水道・学校・道路・体育館の整備などいわゆる『後処理』に費やした588億円の事業のうち、322億円を地方債で賄っています。
土地・山林全てが担保に提供されていたことから、市と市民が活用するにも抵当権の解除のため、相当の価格で市が買い取らざるを得ず、土地開発公社は、長期・短期借入金85億円を抱えていますが、使用している土地は13%にすぎません。
こうした北炭の反社会的責任についても、再検証される必要があります。公社の土地先行取得、使用・未使用の情報すべてが公開されるべきですが、このような土地開発公社の債務まで、市民が負担しなければならないのはきわめて不条理です。
政府のエネルギー政策の転換によって、市は炭鉱の閉山が進み、1960年には最多の約11万を超える人口が約十分の一にまで激減していく中で、市は地域の特性を生かした観光事業に取り組もうと、79年には「石炭の歴史村」事業に着手しました。
全国的なリゾート開発の下で行われた観光開発には松下興産が参入しましたが、松下興産はリゾートが下火になると一切を市に押し付けて撤退し、これも財政を圧迫する大きな要因になっています。
市が身の丈をはるかに超える観光開発に事業の見通しなく、次々に乗り出し借金を膨らませたこと、さらに、赤字財政のやりくりと隠蔽のために、会計間の不適切な操作を行い、結果として借金を膨大にしたことも、重大な要因です。
国の旧産炭地対策は、01年度には国が産炭地域臨時措置法を打ち切り、産炭地域交付金=年約2億円が廃止され、地方交付税の「産炭地域補正」も5年間で段階的に廃止されました。
さらに市が行財政改革で17億円の節減をはかったにもかかわらず、その時期に、『段階補正の縮小』と地方交付税大幅削減が重なり、自民・公明政治による「三位一体改革」地方交付税等削減は23億円にものぼり、2000年度に比べると、05年度の地方交付税は68億円から47億円へ21億円もの削減となり、標準財政規模が50億円足らずの市財政への最後の決定的な打撃となりました。
これが産炭法の失効とともに市財政にとどめを刺したのではないでしょうか。また、夕張市を財政破綻に追込んだ国、適切な支援を怠った道とともに、大銀行の責任を改めて強く問う必要があります。
社会的・道義的に『貸し手責任』を問われなければならない、大銀行はどこなのか、今、夕張市民に『全国最高の負担、全国最低の行政サービス』が押し付けられようとしているとき、夕張市は債権者の全貌を市民の前に明らかにするのが当然の責任です。
情報公開の義務、主権者としての市民に対する『説明責任』があります。『再建計画』で市民の理解と協力を得ようとするからには、直ちに債権者別の債務の全貌を公開すべきです。
また、菅総務相も「債権者などの責任分担を明確にし、債権・債務を整理することが必要だ」と答えています。情報公開をうやむやにすれば市民の理解は得られるはずはありません。
また、財政再建団体への申請を表明した6月20日から、8ヶ月を過ぎた今となっても、問題の本質を市民に明らかにせず、こうなった最大の原因である、市民不在の行政のやり方が改められていません。
計画策定の段階のおいても たくさんの問題を残しています。市民の生活に重大な影響を及ぼす重要で膨大な審議資料は すべて委員会当日にしか 資料が出されず、議会や住民説明会で何度要求されても十分な情報公開がなされず、最終審議の場である昨日の委員会においてさえも、積算の根拠となる 数字や考え方が公にされず、チェックするための議会であるはずが、白紙委任に等しい審議を強行されたことは、総務省や道が標榜している「情報公開」にも、「住民の理解と納得」にも、程遠いものであるといわざるを得ません。
次に、再建計画が住民生活と地域を崩壊に導く問題点について、改めて指摘します。
今あたかも夕張市の財政運営、乱脈経営にのみ原因を求め、国と道の責任、企業や銀行の責任を不問にして、その犠牲を市民にのみ、転嫁する再建計画が策定されようとしていることは、断じて許すことはできません。
まず第一点目に、市民の命と健康が不安にさらされていることです。市立病院の閉鎖は救急医療・夜間診療を放棄することとなり、栗山町、岩見沢市、札幌周辺などへの長時間・広域の搬送・救急体制が必要となります。
また、入院病床の激減とともに人工透析が不能になり、週一回程度の限定的ではあったものの、応援医師による診療が行われてきた眼科・歯科・耳鼻咽喉科・産婦人科などを受信してきた患者は、他市町村の医療機関への転院を強いられ、患者や家族の体力的負担、高すぎる交通費負担と時間的負担を強いられることとなります。
市は、医師・看護師など医療スタッフ確保の困難を最大の理由としていますが、これをもって地域の医療体制を崩壊させることは許されるものではありません。
とりわけ、長期間にわたり、週に何度も治療が必要とされる透析治療に関しては、復活をめざし、それまでの間、透析患者の交通費負担を道が全額負担すること、他の診療科目の受診者に対しても、交通費の助成などが必要です。
また、救急体制の問題では、救急救命士が必ず乗務している、複数の救急車が必要であるにも関わらず、必要な人的配置がされていません。今、夕張市民が最も望んでいるのは、地域医療センターとして、名実ともに機能する医療施設です。
あらためて「住み続けられる夕張への再生」のために、「緊急医療・夜間診療・人工透析などの機能を果たす地域の医療センターとしての医療機関が必要であり、「いつでも救急出動できる救急救命士配置の複数救急車の確保」を要求するものです。
また、除雪に関しては降雪量が10センチから15センチに後退したことにより、地形的に不利な地域では交通に障害が出ています。地域の道路事情に即した安全を最優先にした除雪体制が必要です。
第二点目に、五十四事業の廃止については、緩和ないし代替措置が全くなされていません。
その事業の本来の趣旨や必要性をふまえ、市民が参画して必要性や対応策をよく論議することが重要ですが、通院交通費の復路助成、バス路線や便数の確保、市民法律相談、農業担い手後継対策、中小企業育成対策費補助などが軒並み打ち切り、地場産業育成でも、メロン農家への連作障害予防などまで打ち切られます。
第三点目に「市内唯一の養護老人ホームを廃止」「小中学校を統廃合」「集会施設・図書館・美術館・スポーツ施設・バス路線・老人福祉会館・公衆トイレの問題」など、施設の廃止と使用料金の大幅な値上げは、市民の生きがい対策、文化・スポーツ、生涯教育などに重大な支障をきたします。
憲法で保障されている『健康で文化的な最低限度の生活』を保障しながら、再建のための、銀行の債権の一部放棄・一部凍結や、国・道の責任として 住民への福祉・教育などの 行政水準の維持こそが 今求められています。
第四点目に、市職員の大量退職、第3セクター従業員など多くの労働者が雇用不安にさらされ、大量の市外流出が危惧されているにも関わらず、有効な雇用の確保・拡大の緊急対策すらなされていません。
市民が住み続けられる対策がなければ、計画の中に予定された税収すら見込めないはずです。これでどうやって、財政再建をするのでしょうか。
「国と道の責任、企業や銀行の責任を一切問わず、巨額な財政赤字のすべてを市民に負わせて自治体再編の『見せしめ』にすることは断じて許されることではありません。
夕張市の再建計画は赤字解消の財政再建計画であるとともに、夕張再生の計画でなければなりません。「ここで暮らし続けたい」「何か力になりたい」という住民の自治と助け合いが作れなければ、どんな財政再建計画があっても、夕張再生はできません。子どもたちも、お年よりも笑顔で、安心して暮らせる夕張が求められています。
夕張問題は、夕張だけの問題ではありません。求められているのは、憲法と地方自治の本旨、住民の声に沿った夕張市の再生です。自治体に『スリム化競争』を強いるような政府の圧力に屈するのではなく、この財政再建計画は、まず、国や道、企業や銀行などの責任を明らかにしたうえで、抜本的に
見直すことが必要です。
また、住民が参画したうえで、地域のあり方を論議し、住民が安心して展望をもって暮らせる 夕張再生計画も 平行して策定することが必要です。
以上のことから、議案第2号 財政再建計画書の提出について、および、この議案にかかわるすべての議案についての反対討論といたします。
2007.2.2
ある夕張市議会議員の発言。
それから 13年後の2020年。現在 353億円あった夕張の借金は163億円あまりとなった。しかし、夕張の人口減少は止まらない。
【夕張 借金時計】
https://www.city.yubari.lg.jp/syakintokei/index.html
【夕張の人口推移】
種苗法改正とゲノム編集の関わり
こちらの「種苗法改正について」まとめられた文章は、「歴史未来ラボ」様の動画を文字起こししました。今で投稿した動画を見ると憲法に詳しい方のようで、憲法家のような洞察力をお持ちの方です。動画を見るのが苦手で面倒な方もいらっしゃると思うので、主要な部分まで飛ばして読まれる方の為に 文字起こししました。
【歴史未来ラボ】
今まで 種苗法改正について色々と考察してきましたが、「歴史未来ラボ」様と、私の結論と全く同じで、更に見事に整理されて分かりやすいです。種苗法改正で何が変わるのか。その後に、私たち一人ひとりが出来ることを提示していこうという試みをしています。 ここでは、一つ一つエビデンスを取るのが必要でしょうが、それは後の作業にします。
では よろしくお願いします。
種苗法改正は、今年3月3日で閣議決定され、内閣は法案を国会に提出し、2021年4月の施行を目指していました。
この改正は、農家だけではなく 消費者一人ひとりの生活に関わってきます。しかし、マスコミではほとんど取り上げられません。
インターネットで調べた限りは、それを取り上げて問題提起している新聞社は中日新聞くらいでした。
一方で、マスコミが流す情報は、ほとんど新型コロナのことです。
確かに重要なことではありますが、私たちの生活に関わる 重大なニュースはそれだけではありません。
マスコミが一つの何かに騒いでいる一方で、報道の騒ぎを隠れ蓑にするように重要な法案が通されることは往々にしてあります。(スピン報道)
今回もいつものパターンでしょうが、
種苗法が改正されることで、何が変わり、私たちの生活にどう関わってくるのかを、あまりイメージ出来ない方もいらっしゃるとかもしれません。
後で詳しく説明しますが、この法改正によって知らないうちに、私たちの食卓に並ぶ食材が大きく変わってしまう可能性がかなり高くなります。
今回の動画では、その改正によって、何がどう変わるのかを話し、その後に私たち一人ひとりが出来ることを提示していこうと思います。
そもそも 種苗法とは何かを整理していきましょう。
種苗法の原型として、戦後間もない 1947年に、農産種苗法が施行され、1978年に種苗法が成立し、1998年に今の種苗法が改正されました。
これは、種と苗の知的財産権を守る法律で、新たに品種登録されると育成者権が発生し、その後25年は登録種を無断で売ったり、譲渡することは出来ません。
しかし、農家が種を自家採取したり、挿し木などで増殖することは原則自由でした。
一方で、例外的に自家増殖が禁止されているものもあり、その数は1998年には23種、2006年には82種、2018年には一気に356種に増え、2019年には387種になりました。
禁止の数が増えて、農業関係者の間では問題視されていたのですが、今回の法改正が通ると、それが一律禁止に変わってしまいます。違反すると10年以下の罰金か、または1000万円以下の罰金が科せられます。
https://www.agrinews.co.jp/p50066.html
【日本農業新聞】
昔から日本にある在来種や非登録品種、登録期限が切れた品種は、今までと同様に自家採取できますし、家庭菜園であれば、育成者権のある登録品種でも自家増殖できるので、その点はご安心下さい。
種に関しては、流通している種のほとんどはF1種で、ほとんどの農家は自家採取することなく、植え付けのたびに種を買い続けてきたので、種苗法が改正されても実態は、ほとんど変わりはないかもしれません。
F1種とは1世代目の種のことで、メンデルの法則の一つ、優勢の法則を利用して形や大きさが均一に収穫できる種のことです。現在、殆どのF1品種の種苗は海外で作られています。
http://nou-ledge.com/2017/08/23/170823_f1/
【農legte】
遺伝の法則によって、2世代目以降は形や大きさがまばらになってしまうので、ほとんどの農家は種を自家採種することなく、ホームセンターなどで新たに種を買っています。そのほうが農家にとっては生産性が良いからです。
そのため、法が改正されたとしても、実態はそこまで変わらないかと思います。
多くの農家にとって、一律禁止されることで問題となるのは種取りではなく挿し木や株分けなどによる増殖の方だと思います。
増殖というのは、例えば、トマトの苗から小さな脇芽が出るとその脇芽を取って、新たに土に植えて増やすという栽培技術のことです。芋でも親株からランナーという蔓が伸びたものを土に植えて増やしたりします。
【脇芽を知って、挿し木を知ろう】
自家増殖原則禁止とは、これらも禁止するということです。
水産省の説明によれば、禁止するのは、登録品種だけで登録品種というのは種子全体の5%ほどだから、心配することではないと話していますが、登録品種と知らずに自家増殖している農家がいるという例は各地で報告されています。
https://www.maff.go.jp/j/shokusan/shubyoho.html
【農林水産省HP 種苗法改正】
例えば鹿児島の農家が、在来種だと思って自家増殖していた紫芋を改めて調べてみたら実は登録品種だったとか。
元農林水産大臣の山田正彦氏によると、栃木県のある農家が、伝統的な品種だと思って、株分けすることで増やして販売していたウドが、芳香1号2号という名前で平成24年に登録されていることが判明したこともあったといいます。
https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/3020199183
種苗法が改正されると、登録品種は一律自家増殖が禁止になるので、毎年対価を払って許諾を得るか、苗を全て購入しなければならなくなります。
https://www.jeinou.com/mobile/benri/others/2016/11/161410.html
【ウドの根株養成の方法】
そうなるとウドの株分けができなくなり、新たに500万円の負担増になるので、今までと同じ農業は続けられないと嘆いていたそうです。
http://xn--m9j881n25q.jp/cat9/post_369.html
【ウドの大木にならないようにね】
さらに農水省は、毎年約800種の新品種の育種登録を認めているので、伝統的な在来種と勘違いして、知らないうちに犯罪をしてしまうという事例が増えていくことが考えられます。
これでは農家の活動を大きく制限してしまいます。
そもそもなぜ農林水産省は、農家の自家増殖を制限しようとしているのでしょう。
その理由に「育成者の正当な利益を確保すること」と「品種の保護を強化すること」などを挙げています。
この背景には、中国に苗木が流出した「シャインマスカット」や韓国に流出して、育成者権が保護されなかったイチゴの「とちおとめ」や「レッドパール」などの事例が影響しています。
https://www.maff.go.jp/j/shokusan/attach/pdf/shubyoho-6.pdf
【農林水産省HP 法案参考資料】
そういった優良な育種知見が海外に流出するのを防いで、日本の市場を守るために種苗法の改正が必要だというのです。
しかし、国内の品種を育成者権者の許諾なしに、生産か輸出目的で海外に持ち出すことは、今の種苗法でも禁止されています。
いくら国内法を厳しくしたからといって、海外の盗人を完全に取り締まれるわけがありません。
物理的に阻止するのであれば、空港での荷物検査や、輸出に関するルールを厳しくするべきでしょう。
また海外において権利を主張するには国内での登録とは別に、各国で品種登録をする必要があります。
品種保護制度は「植物新品種の保護に関する国際条約(UPOV条約)」により国際的な枠組みが整備されており、育成者権は国ごとに取得することが決められています。
つまり、海外で品種登録されていない場合は、その国で育成者権を主張できないのです。
海外の流出を防ぐというのなら、本当にすべきことは、種苗法の改正ではなく、海外での品種登録を促し、資金面でも支援することでしょう。
農林水産省食料産業局知的財産課のWebベージを見る限りは、2016年頃から海外の品種登録の支援を始めています。
https://www.alic.go.jp/koho/kikaku03_001040.html
具体的には、海外出願のマニュアルを作成したり、出願にかかる経費の支援をしています。
海外への流出を防ぎたいのであれば、それに注力すればいいのです。
また政府や農水省は海外への流出を懸念しておきながら、2017年に成立させた農業競争力強化支援法の8条4項で「日本が国や都道府県で開発した優良な種苗のデータを民間企業へ提供すること」としています。
https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=429AC0000000035#36
17年の3月23日の衆議院本会議において、日本共産党の畠山議員が同支援法において、国籍などの要件がないことから、外資の参入の可能性を問いかけたところ、農相は「事業者の国籍に関係がありません。外資企業が支援措置を活用することも可能でございます」と答弁しました。
【2017年3月23日、農業競争力強化支援法、衆議院本会議 映像】
http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=46853&media_type=
つまりこれは、戦後から積み重ねてきた公的機関の種苗の知見を、外資を含む民間業者に提供することを言っていることになります。
種苗の海外流出を防ぐために、種苗法を改正するといいながら、外資にも種苗の知見を提供するというのです。
これでは種苗の海外への流出を防ぐという法改正の理由は、詭弁だと言わざるを得ません。
また、日本の品種登録出願数は少ないので、今後世界的に日本の農業の競争力を高めるために、種苗法の改正の必要性を訴えています。
しかし、これも前述したように、海外で品種登録しないことには、海外で権利主張できないので、本当に競争力を高めるのであれば、海外での品種登録をさらに促進することが必要です。
いつものことですが、政府高官や官僚たちの狙いは、別のところにある可能性があります。
この種苗法改正の狙いを考察するにあたって、この改正案を単体ではなく、2017年に成立した「農業競争力強化支援法」と2018年の「種子法廃止」をセットで考える必要があると思います。
また、日本以外の世界の趨勢や、ゲノム編集などを絡めて考えないと全貌が見えません。
では、それらを含めて、今回の種苗法改正の狙いを考察していきたいと思います。
まず、現在の日本政府は全体的に、どういう方針をとっているのかをみていきましょう。
安倍総理は2015年9月28日に、ニューヨークにおける対日投資セミナーにおいて「世界で一番ビジネスをしやすい国を目指す」と発言し、日本への投資を海外の投資家に呼びかけました。
その意向は実際の動きにも反映されており、様々な業界のルールが変えられています。
まず、農業分野からみると、2016年4月に農地法が改正され、日本の農地を農業とは全く関係のない外国企業でも買いやすくなるようにルールを変えられていますし、農薬の規制に関しても世界の趨勢に逆行して規制緩和しています。
【農業委員会日常業務のQ&A(ver.2)p26】
2015年5月19日に日本政府はネオニコチノイド系農薬の「クロチアニジン」などの食品残留基準を大幅に緩和しました。
「クロチアニジン」はEUでは屋外での使用を全面禁止にされており、スイス、トルコ、韓国でも使用禁止されています。
http://organic-newsclip.info/nouyaku/regulation-neonico-table.html
【有機農業ニュースクリップ】
クロチアニジンはドイツのバイエル社と住友化学の2社が特許を持っているのですが、その住友化学から基準値引き下げの要望を受けて、農水省が改訂を申請したといいます。
さらに、日本政府は翌年にも別のネオニコチノイド系農薬の残留農薬基準も引き下げました。
ネオニコチノイド系農薬は、環境や人体への影響も懸念されていますが、2006年以降、先進国を中心に世界各地で報告されているミツバチの大量失踪の原因の一つとして、ネオニコチノイド系の農薬がミツバチの神経系を狂わせるなどの悪影響を及ぼすことが挙げられています。(参考、岡田幹治著「ミツバチ大量死は警告する」)http://hakaihisan.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-a60d.html
【墓石さんのブログ】
ネオニコチノイド系農薬のミツバチ対する影響は賛否両論ありますが、ミツバチの死骸から最も多く検出されたのは、ネオニコチノイド系農薬だったという報告もあります。
https://www.greenpeace.org/japan/sustainable/story/2015/02/06/2688/
スイスに本部が置かれている、世界最大の自然保護機関、国際自然保護連合(IUCN)の研究者たちの報告によると、ネオニコチノイド系農薬が鳥類や昆虫類の激減の主要な要因にもなっているとされています。
また、モンサント社が開発したグリホサート農薬は、ヨーロッパや中東や南米などで使用禁止したり、制限をかけようとしている国や地域が続出しているのですが、これもまた日本では2017年12月に残留基準値を最大で400倍緩和しています。
http://organic-newsclip.info/log/2017/17120875-2.html
【有機農業ニュースクリップ】
日本でもラウンドアップという商品名で、家庭でも気軽に使える除草剤として、ホームセンターなどで大々的に販売されているので、見たことがある人も少なくないと思います。
ちなみに日本での商標権と生産販売店は、2002年に日本モンサントから日産化学工業(現日産化学)へ譲渡されています。
モンサント社が開発したグリホサート農薬の環境汚染や、人体への悪影響については世界では散々取り上げられており、様々なところで裁判沙汰になっているのですが、日本はそれを知ってか知らずか、規制緩和に踏み切っています。
つまり、どういうことかというと、ネオニコチノイド系農薬やグリホサートなどのバイオ系の多国籍企業の商品が、世界で禁止や制限される傾向にあり、売上もどんどん下がってしまうので、その減少分を埋め合わせるように日本に押し付けようということになっていると考えられます。
日本政府は今の安倍政権に限らず、基本的に外圧に非常に弱いです。
歴代政権はアメリカ政府による年次改革要望書(1993年~2009年)やアメリカのシンクタンク、戦略国際問題研究所(CSIS) によるアーメテージレポート(2000、2007、2012、2018)などに従っています。
今の安倍政権はそれが顕著と言えるだけであり、敗戦後の GHQ による統治以降は、今でも実質アメリカの属国状態であり、その構造に群がるように、多国籍企業が国内の利権をむさぼっています。
今の安倍政権は、さらに国内の大企業や外資の多国籍企業がより有利な社会に変えようとしており、農薬や水道事業に見られる規制緩和や民営化は、そのほんの一部にすぎません。
ここでは詳細に触れませんが、酪農でも林業でも漁業でも、各業界を保護する法律が、2016年あたりからどんどん改正されており、大規模な企業がどんどん参入しやすくなっており、外資規制もかけられていません。
これらのことは、堤未果氏の著者「日本が売られる」に詳しいので、詳細が気になる方はそちらを読んでみてください。
https://bookmeter.com/books/13156185
【感想・レビュー 読書メーター】
ここで一旦話をまとめると、今の日本は経団連をはじめとする国内の大企業や外資系の多国籍企業がより有利な社会に変えられつつあります。
TPPや日米間の貿易協定はその土壌づくりの一環というのは言うまでもありません。
そういった流れの中で、2017年に農業競争力強化支援法が成立し、2018年4月に種子法が廃止されました。
種子法に関して簡単に説明すると、1952年に制定された法律で、国が補助金を出し、都道府県がコメ、麦、大豆などの主要農作物の種の開発、増殖に責任を持つという体制が築かれ、そのおかげで、全国の農家は安定して優良な種を安価で買うことができていました。
しかし、民間企業の開発意欲を削いでしまうという理由で、種子法が廃止され、国からの補助金がなくなってしまいました。
そうなると、種子法によって守られてきた安価で優良な公共の品種が失われ、三井化学や住友化学、日本モンサントなどの大企業による品種寡占のレールが敷かれてしまいます。
実際、日本ではすでに、三井化学の「みつひかり」住友化学の「つくば SD」日本モンサント「とねのめぐみ」などの籾米が流通しています。
公共の種がなくなり、民間の種ばかりになると、今後は種の価格が上げられるとともに、農作物の価格も上がってしまうことが考えられます。
民間企業は利益が第一で、株主などに報酬を与えないといけないからです。
生きる基本としての「食」を「市場原理」に任せてしまうと、生活の根幹が揺るがされてしまう可能性が高くなります。
そういった事態にならないためにも、山形県、新潟県、富山県、埼玉県、兵庫県、長野県、北海道などは、種子法に変わる「種子条例」を独自で制定しました。
https://biz-journal.jp/2019/06/post_28187.html
【地方の反乱 種子条例】
しかし、国からの補助金はなくなっているので、前より厳しい状況であることには変わりはありません。
また、それ以外にも懸念すべきことがあり、2017年に成立した農業競争力強化支援法(8条4項)で「日本が国や都道府県で開発した優良な種苗のデータを民間企業へ提供すること」とありますが、外資にも提供される可能性のある種苗データは、遺伝子情報も含まれることが考えられます。
https://www.jpo.go.jp/system/patent/shutugan/bio/gene/index.html#tmp_header
【遺伝子配列データ特許出願について 特許庁】
もし遺伝子情報も渡されるとなると、日本が開発してきた遺伝子情報を編集されることで、ゲノム編集食品が開発され、特許化されることが考えられます。
ゲノム編集とは遺伝子の特定部分を酵素で切断して、変異を誘発するという新たな技術です。
一つの作物に別の作物の遺伝子を組み込む遺伝子組み換えとは違います。
ゲノム編集によって「アレルギー物質の少ない卵」や「収穫量の多い稲」「身の多い真鯛」「血圧を下げる成分が多いトマト」「切っても涙が出ない玉ねぎ」などがすでに開発されています。京大発の肉厚真鯛は 約2年で商品化できるといいます。
http://www.kyoto-u.ac.jp/kurenai/201809/taidan/
これだけ聞くと、メリットばかりのように思えますが、ゲノム編集は始まったばかりの技術で、まだまだ解明されていないことが多く、危険度も未知数です。
狙った遺伝子とは別の遺伝子を切断することによって生じるリスクもあります。(クリスパーキャス9の不確実性)
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=4305861609440636&id=100000505175335
【ゲノム編集が二重の意味で大変なことになっている】
DNA を切断する酵素は、研究者が設定して作成するのですが、作成者のミスで、狙っていたものとは別の部分を切断して、想定外の変異を誘発してしまう可能性があります。これをオフターゲット変異と言います。
例えば、じゃがいもが日光にさらさると、毒を生成し、緑色に変色しますが、その緑色にする遺伝子を切断することで、毒が生成されていても、緑色にならず、気づかずに食べてしまうという恐れがあります。
そういったリスクを考慮して、EUでは白か黒かはっきりしないものは、取り入れないという「予防原則」に則って、ゲノム編集に対して、遺伝子組み換え同様の規制をかけていますが、日本の動きはそれとは逆です。
日本では「ゲノム編集は遺伝子組み換えではなく、従来の品種改良と差はない」との理由で厚生労働省によって「安全性の審査が不要」となり、ゲノム編集の食品の届出制度が昨年10月から始まりました。
今後ゲノム編集の食品が日本でも増えていくことが考えられますが、食品表示義務はなく、見た目はほとんど変わらないので、どれがゲノム編集食品で、どれが従来の野菜か、消費者が判別することは不可能に近いでしょう。
スーパーマーケットに並べられる野菜が、ゲノム編集のものだけになることも考えられます。
さて、ここまでみると、種苗法の改正の本当の狙いが見えてきたのではないでしょうか。
これはあくまで私の見方でがありますが、種苗法の改正は、今後どんどん新しく品種登録されるであろうゲノム編集の野菜の自家増殖を一律に禁止にするためだと考えられます。
自家増殖は従来は原則自由でしたが(例外あり)品種ごとに禁止にするには禁止項目を増やすという行政の手間がかかります。
しかし、一律禁止にしてしまえば、面倒な手続きを踏むことなく、ゲノム編集の野菜の自家増殖を禁止にすることができます。
農業競争力強化支援法でも、2017年11月の農水省事務官の通知書でも明らかになってきたように、公的な種苗を民間に移すという路線があるので、種子法で守られてきた種子データがバイオ企業に渡されることで、それらにゲノム編集が施され特許化されることが考えられます。
見た目はほとんど変わらないので、どれがゲノム編集の種で、どれが従来の種かを判別することが不可能に近いです。
となると在来種をゲノム編集され、品種登録されると在来種と勘違いして、自家増殖をしてしまう農家が続出することが考えられ、故意ではなくても罪を問われるという可能性があるのです。
遺伝子組み換えやゲノム編集の植物の危険なところは花粉を出すのを止められないことです
自分の畑で在来種だけを育てていたとしても、隣の畑の人がそれに近いゲノム編集の野菜を育てていれば、その花粉が飛ぶことで、知らないうちに交雑しまうことも考えられます。
もちろん特許のある植物と違う植物 を、交雑させることも犯罪になる可能性があり、それを知らずに自家増殖していることが判明したら訴えられることも考えられます。
そんな話、あり得るわけがないと思う人も多いと思いますが、過去の事例をみると、遺伝子組み換えの特許を持つモンサント社が同じようなことをしています。
例えばカナダのナタネ農家、シュマイザーさんはある日、モンサントから脅迫のような手紙を受け取りました。
それはこのような内容でした。
「あなたは我がモンサント社の遺伝子組み換えのナタネを無断で栽培している。特許使用料を払うように。もし支払わなければ裁判所に訴えるぞ」
しかし、シュマイザーさんは、自分の畑に遺伝子組み換えのナタネの種をまいたことがありませんし、遺伝子組み換えの栽培をしようなんて、考えたことすらありませんでした。
よくよく調べてみると、それは他の畑から遺伝子組み換えの花粉が飛んできて、交雑が起こっただけの話でした。
モンサント社が、なぜそのことを突き止めたのかというと、それはモンサント社の私設警察のモンサントポリスが勝手にシュマイザーさんの畑に入って、ナタネを盗み出して分析したからでした。
そして、それは裁判沙汰に発展し、シュマイザーさんは一度負けてしまったのです。
その後、シュマイザーさんは別の件で、裁判を起こし、和解に持ち込むことに成功しました。しかし、裁判費用などを考えると結果的にはマイナスでした。(猿でも分かるTPPを参照)
日本で 海外産の巨大なナタネが発見された。
このように、モンサント社はアメリカやカナダで、何百件もの農家を特許権の侵害で訴え、たくさんの農家がそのせいで破産しています。
モンサントの暴虐ぶりはメキシコやインドなどでも有名です。ここでは詳細に触れませんので、気になる方はお調べください。
なんにせよ、モンサント社の暴虐ぶりは世界中で有名で、反モンサント運動が広がったことです。
その結果、モンサントは世間の批判逃げるように、ドイツのバイエルに吸収される形で、2018年に合併しました。しかし、名前を変えただけと考えたほうがいいです。
バイエル社もまた、ゲノム編集に力を入れています。遺伝子組み換えに対する反感は世界中に広がってしまったので、次はゲノム編集というわけです。
ゲノム編集についても賛否両論です。
推進する科学者の中にはゲノム編集は世界を飢餓から救うという人もいるようですが、果たして本当にそうでしょうか。
遺伝子組み替えも「収穫量が上がり、世界から飢餓をなくす」というような謳い文句で推進されました。
しかし、収穫量がむしろ下がったという報告もたくさんありますし、遺伝子組み換え作物とセットで使うことを強要される、ラウンドアップによる環境や健康への被害もたくさん報告されています。
遺伝子組み換え作物の健康へのリスクも、様々な識者から警鐘を鳴らされてきましたが、科学者側は「科学的」にそれを否定してきました。
しかし、科学だけではわからないことはまだまだたくさんありますし、科学的エビデンスというものが覆されるということが往々にしてあります。
開発側やその利益に関連する人たちは、科学的見地で理論武装して安全性を訴えますが、まさにその遺伝子組み換え食品を、モンサントの従業員には食堂などで出していない、ということが環境保護団体のFriends of the Earthによって1999年に暴露されています。それが何よりの答えではないでしょうか。
遺伝子組み換えの次に現れたゲノム編集の食品も、安全性がしっかりと確かめられていない段階で、社会実験のように推進するのは大変危険だと私は思います。
その利益の享受する科学者たちが、どれだけ安全性を訴えても、信じられるわけがありません。
また、種の支配という側面から、ゲノム編集を考察する必要があると思います。
種を支配するものは世界を支配すると昔から言われていますが、上のグラフを見てわかるように、2014年時点で、種市場たった三社によって、半分以上のシェアが占められています。
昨今は企業の買収や統合により、更に寡占化は進んでおりバイエルがモンサントを買収しただけでなく、2017年にダウ・ケミカルとデュポンも経営統合し、ダウ・デュポン社して新たに誕生し、農業部門だけ分離して、コルテバ・アグリサイエンス社が創設されました。
また、スイスのシンジェンタも、中国国営の化学会社、中国化工業団に2016年に買収され、今は米中独の三か国がトップの座を争っている形になります。
もちろんその三社は、ゲノム編集の野菜の開発と、流通販売に力を入れています。
種を支配することによって農業を支配し、世界の食料を支配できるわけですが、ただでさえ日本では、離農が進んでいるので、こういったバイオメジャーによる、ゲノム編集の野菜だらけになることが容易に想像できます。
そういった世界情勢からしても、日本で農業支援強化法が成立し、種子法が廃止され、種苗法が改正治療法されるという一連の流れは、これからゲノム編集の食品を普及させるための、土台作りだったということが見えてくると思います。
世界の企業だけではなく、日本企業もゲノム編集の開発を進めています。
様々な農薬の特許を持つ住友化学も、昔からある日本の種苗会社大手のタキイ種苗とサカタのタネなどもゲノム編集に力を入れています。
つまり、日本政府は世界のバイオメジャーや国内の大企業などによる要請を受けて、一連の法改正へと動いたと考えられます。
今後、モンサント時代のような、特許を振りかざした訴訟の嵐が巻き起こされることも考えられるので、今のうちに、対策を講じる必要があります。
そういうことが起こり始めると、小規模の農家は、どんどん廃業に追い込まれてしまいます。
また少子高齢化と都市への人口集中による、跡継ぎ不足の問題もあるので、日本の農業は、どんどん大企業に集中していくことが考えられます。
そうなると、日本の食品がゲノム編集だらけになってしまうということも考えられるのです。
個人的な考えですが、種子や苗などの命あるものを、特許の対象にするのはおかしなことだと思います。
遺伝子組み換え技術やゲノム編集技術そのものに対する特許なら分かります。
遺伝子組み換えにしろ、ゲノム編集にしろ、それらの技術で作られた種子には元の種子が存在し、それは何千年もの間、我々の先祖が工夫しながら繋いできた種子なのです。
また、遺伝子を組み換えたり、編集することができても、その大元の種子の命は人間には作れません。
最近では受精卵に対して遺伝子組み換え操作をすることで生み出され、デザイナーベイビーも現れてきています。
私には、人類はテクノロジーによる、科学万能主義に陥っているようにみえます。
科学だけが信奉されて、生命とは何かという、哲学的な問題が軽視されているのでしょう。
ちなみにインドでは遺伝子組み換えでも、在来種でも、種子の特許は禁止されています。
モンサント社は何度もインドの特許法
を、改悪させようと試みてきましたが、インドはそれをはねつけてきました。
【ヴァンダナ・ジヴァ著「いのちの種をだきしめて」】
インドではすでに全国各地に無数のシードバンクが作られ、農民に在来種が提供されているほど、種に対する思いが強いのです。
しかしそんなインドでも、種子法を改正しようという動きが未だにあるようです。日本では既に廃止されてしまい、種苗法さえも改正されようとしています。
しかし、悲観するのはまだ早いです。改正されたとしても私たちにできる対策があります。
まず、挙げられる対策法は、地方自治体レベルで、ゲノム編集に規制をかける条例を作ることです。
例えば、遺伝子組み換えに対して規制をかける自治体の条例があります。
遺伝子組み換えの商業栽培は日本国内ではありませんが、特に法律で禁止されているわけでもありません。
2011年12月1日時点で、71件の遺伝子組み換え作物の国内商業栽培の認可が出ています。
しかし、農林水産省によれば、現在、日本で商業栽培されている遺伝子組み換え植物はバラのみです。(公式データ)
それ以外は研究用の試験栽培にとどまっています。なぜ日本では遺伝子組み換えの商業栽培が広がっていないのでしょうか?
それは市民の間で遺伝子組み換え作物に対する、嫌悪感が広がっているからであり、作っても売れないからです。
しかし、禁止されていないのであれば作る人もいるかもしれないということで、愛媛県の今治市では、食と農のまちづくり条例において、市の承諾なくして、遺伝子組み換え農産物を作付けすると、半年以下の懲役、または50万円以下の罰金にしています。
北海道でも遺伝子組み換え作物を栽培するにあたって、知事の承認を必要とする条例があります。
これらの事例をもとに、地方自治体で遺伝子組み換えだけでなく、ゲノム編集の種子による栽培を条例で規制することができます。
種子法が廃止されて、独自に種子条例をつくる自治体が出てきたように、種苗法改正後に、栽培が広がることが考えられるゲノム編集作物に対しても、規制をかけることができるのです。
お住まいの自治体の役所の人達にアプローチして、危険性を訴えて条例をつくってもらうよう要請することもできます。できれば集団の方が効果的でしょう。
元農林水産大臣の山田正彦氏が、こういった動きを先導しているので、同氏の動向をチェックすると、何か大きなヒントが得られるでしょう。
次に挙げられる対策法は、農業や家庭菜園を通して、種を後世に繋げる人をを増やすことです。
育成者権が認められていない品種であれば、今までのように栽培し、農作物として販売することも可能で、種や苗においても有償でも無償でも流通させることはできます。
また、仮に育成者権を保有している品種であっても、種苗法改正後でも家庭菜園は対象にはなりません。
ただし、家庭菜園でも育成者権がある種や苗を有償無償にかかわらず渡すことは種苗法に抵触し、罰則対象となってしまうのでご注意ください。
個人的には、品種登録されていないもので、なおかつお住まいの地域の伝統的な在来種を自家採取することをお勧めしますが、どういう種でも後世に種を繋げる人が増えれば、ゲノム編集食品だけになるという未来にはなりません。
お家の庭や、プランターでもいいと思うので、家庭菜園から始める人が増えればいいと思います。
F 1種の種ホームセンターでも買えますし、在来種であれば通販で購入するか、お住まいの地域の農家か家庭菜園をしている人の中に、伝統的な在来種を自家採取している人もいると思うので、購入するか、物々交換するか、譲ってもらうようにお願いをするといいと思います。
その際はその種が育成者権がないかどうかを、しっかりチェックしてから譲ってもらいましょう。
相手も育成者権のない在来種だと勘違いして、育成者権がある種を譲渡するかもしれず、そうなると犯罪になってしまいます。
そうならないように、農林水産省品種登録ホームページで、品種登録されているかどうかを検索することができるので、そちらでチェックするか、それでもわからない場合は、在来種を扱う種屋さんから直接か、ネットで買うのが一番確実です。
広島県には、みんなの共有の財産である種子を守るという先進的な目的で、1988年から伝統的な在来作物の種子を保存、維持管理してきた財団法人「ジーンバンク」があります。
今では、稲、飼料作物、豆類、伝統野菜など、5000点以上の種子の保存して、県内の農家に無料で貸し出ししているといいます。
最も注目すべき点は、このように伝統的な固定種のデータを保存管理していれば、たとえ今後政府が固定種の自家増殖を禁止してきても裁判で「先使用権」を主張できるとしていることです。
こういった素晴らしい組織もあるので希望はまだあります。
しかし、このような組織がずっと存続するとは限らないので、私は誰かに希望を託すのではなく、自分自身が動いていく必要性を感じています。
私としては家庭菜園を通して、在来種などの種を後世に繋げる人が増えることを願っています。
私自身も今後もそうしていきますし、市民レベルで種を共有するネットワークが、全国各地でできる未来を想像しています。
自身の利益のために森林を燃やしたり、大量に伐採して自然を破壊する人がいたら、それを非難するだけに留まらず、自分でも木を植えればいいのです。
そういう人が増えれば木は増えていきます。
種もそれと一緒で、新たな技術で種を独占しようという人がいるのであれば、自身で種を繋いでいけばいいのです。
そういう人が増えれば、古来から続く種もどんどん増えていきます。
これに共感して頂ける方は、共に種を未来に繋いでいきましょう。
それでは今回はこれで終わりにします。今回のお話はいかがでしたでしょうか。
ゲノム編集に対するご意見や、それに対する他の対策法など、新たなアイデアがございましたらコメントでお聞かせいただければ幸いです。
それでは今回も最後までご視聴ありがとうございました。次の動画でお会いしましょう。